「NO!」と言えること
私たちは幼い頃から嫌な事に対して嫌と言わせてもらえない環境で育ってきた。
赤ちゃんの頃、保育園や幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、家庭や会社で。
嫌な事に対して自分の本心である嫌を伝えるというのは生きる上で最も必要な基本的な原始的反応の一つである。
しかし幼い頃からその反応を否定され、その反応に罰(暴力)を与えられてきた者は、自分の原始的反応に素直になる事が出来ず、自分の意見を言う事が出来なくなる。
原始的反応は生命が生きる上で基本的な反応であり、その反応が出来ないとなれば、自ずと生命的エラーが生じる。
例えば、毒を口にした時、吐き出すという原始的反応があるが、その反応を素直に出来ないと毒に侵される。
また社会的な事で言えば、この国のシステムを作る政治に対してNO!が言えず、原発を作らせたり、利権構造を作らせたり、戦争を起こさせたりしてしまう。
人間関係や家庭的な事で言えば、NO!が言えなければハラスメントの標的にされやすく、また自ら受けにいったりもしてしまう。
NO!はNO!でも、本心によるNO!でなければ、意味がない。
それが、利己心からのNO!であったり、自分を大切にしないNO!であれば意味がない。
何故、私たちは幼少期には勇気が無くてもNO!と言えたが、今では言えないのか。
NO!という事によって与えられてきた罰(暴力)による恐怖が深層心理にまで根付いているからである。
だからそこ、嫌なものに対してNO!と言えるように勇気を持たなければいけない。
それから注意しなければいけないのは、自分の意思を表明する事は大切であるが、そこに執着してしまい、自分の身の回りのことが出来なくなってしまっては本末転倒という事である。
自分を大切にする為のNO!であり、身の回りの事が出来なくなるのは自分を大切にしていない事になる。
国や権力者たちは、NO!を言わせない事によって見せかけの秩序を作ってきた。
その方が統治しやすいと思ってきたからだ。
この秩序には沢山の暴力と悲劇が隠蔽されている。
例えば、責任という名の暴力や、依存症、イジメ、自殺という悲劇などである。
本来、私たちは私たちの命の作動によって秩序を形成できるようになっている。
命の作動、原始的反応は学びをもたらす。
学びがあれば同じ過ちを繰り返さない努力ができるが、学びがなければ規則と罰を整えるだけであり、それは隠蔽された暴力により強制されているに過ぎない。
そしてそれは、世の中に隠蔽された暴力と悲劇を蔓延させるのである。