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プロフェッショナルでないとならないのか

プロとは何なのか?

『ファブル』っていう殺し屋の漫画が好きで時々読み返す。
プロの殺し屋の話。
「佐藤」は殺し屋をやめて、普通のプロになるって話。普通とはなんなのか。生きるとはなんなのか。死ぬとは?って話(意訳)

佐藤が好きだ。プロだから。
便宜上の佐藤の妹も好き。プロだから。
佐藤を殺し屋ではなくバイトで雇ってくれたデザイン会社のタコ社長も好き。
そう!!なぜならプロだから。

配偶者に「愛さんはプロが好きなんだね。あの人はプロフェッショナルだったから嬉しかったんだね。」ってある時いわれてびっくりしたんだった。

そうなんだ、自分。
私ってプロが好きなのか!って。

『ファブル』の感想読んだら、そんなの一目瞭然なのに気がついてなかったっていう。

でも誰だって最初っからプロなわけではない。
佐藤だって、山の修行で失敗もたくさんしたって言ってた。

あとそれと相反するんだけど、アマチュアで大満足って思う人もいる。

配偶者は小・中学校とサッカーをやっていた。
それを聞いて私は、好きなサッカーの選手を教えて〜って、質問。
そしたら配偶者が「ん?いないよ。サッカーをすることがただ楽しかったからやってたんだ。」
って答えてさ、

「ん?」

って言っちゃったそこから早口で
「だってそんなに長くやってて、もっとよいプレーをしたいって思った時ってプロ選手のプレイが参考にならない?好きなプロ選手はいないってどういうこと?なんでサッカーやってたの?」10秒ぐらいでこの文字数言い切ったと思う。息継ぎなし!詰める詰める詰める!こわい!

配偶者は、さっきと寸分かわらない熱量でいう。

「ん?サッカーが楽しかったからやってたんだよ。別に試合にでたいとかもなかったしね。」

私、ふぁつ????????だった。
欲望なさすぎやろ。

けど、今日やっとわかった。

ずっとアマチュアでいつづけたい人は存在する。
その人の好きだからやってる。を、否定する必要はみじんもない。

そんなの当たり前なのに、
私、そんなこと思ったことなかった。


プロがいい!って思ってた。

私はオタクなのだろう。好きになったらとことん深掘りしたい。その分野の過去の偉人の本を読みたい。
その分野のプロを知りたい。って思っちゃう。


歌を歌うのが好きなら歌えばいい。だからカラオケボックスがある。


なのに、

歌を歌うなら、
プロを目指さないの?なぜ?なんでやってるの?ってなんだそれ。うるせえな、ただ気持ちよく歌わせろ!

なんで今日そんなこと思ったかって、

アマチュアで楽しく演劇をやってる人たちに対してめちゃくちゃザワザワしているのは一体何故かとずっと内観していたから。

シェイクスピアを読んだことがない人が演劇をやったらダメなの?
ただ演劇をやるのが好きな人はそれでいいじゃん。楽しむことは自由でしょ?


「戯曲」は曲じゃないです。
そんなことを知らないのに演劇をやってるの?がーん。いや?いいんです、そんなの知らなくても演劇やっていいです。

戯曲の「戯」漢字で書けますか?ってテストしないよ。

私、やっと真面目優等生やなやつ正義感の自分を手放した。
ジャッジを手放したーー!ひゃっほう!って思ってたけど全然手離せてなかった。
めちゃくちゃジャッジしている。私はとんでもなく推敲された戯曲を書いて、とんでもなく高尚な演劇作品を作ろうとしているのか?そんなものできるわけがない。いつこんな思い込みを手にしたんだろう。

「立派な批評家に評価されるためには高尚なものを作らねばならない」って思っていたのかも。どこで刷り込まれた?「完璧」な作品など一生かけてもできないだろうに。
一生に一回、これ、とんでもないもの作れたな!ってなったらそれだけでも充分、最高じゃん!

私は12歳の時にはじめて演劇の台本を書いた。
そして、図書室で演劇部のみんなと夢中になって『ロミオとジュリエット』のセリフを声に出して読んだ。あの時のワクワクだけで一回やればいいじゃないか。

楽しんでる人たちに水をさす必要がないのに、なぜわざわざ水をさしにいく。のりまき愛、お前が立ち去れ!!!


似たような日記1月にも書いてた。


2月8日が雪が酷くて、私は演劇のワークショップを延期してしまった。

新しくやる日を決めるだけでいいのに、決めれないわけ。何やってんだ!完璧なワークショップをやれなかったら死に至るとでも思っているのか私よ。

アマチュアとかプロフェッショナルとかどうでもよい。どれだけ心を震わせて自分に嘘のない作品を作れるかどうかだ。

まだ20代前半で自分にとんでもなく演劇の才能があるって信じ込んでて、若さゆえに無敵だった時、30歳になっても演劇で喰えてなかったら演劇やめますとかヘーキで言ってた時、

当時の大好きだった人が
クーネルを買ってきて、

一緒に読んだ。

私はそこで宮脇綾子のアプリケ芸術に息をのんだ。

宮脇綾子は間違いなくアップリケを芸術の域まで持っていったプロフェッショナルだけど、この人は生活者だ。主婦で美味しいご飯を作る中に芸術をみつけている。布も無駄にしない。生活の中にでた端切れやゴミとして捨ててもかまわなかったような物がアプリケに組み込まれて芸術的作品になっている。
民藝ともまた違う気がする。私!この人みたいになりたい。

このクーネルを買ってきてくれた大好きだった恋人と、こんな生活がしたいねと夢想した。宮脇夫婦のように、質素な生活の中で美しいもの、美味しいものをみつけて生きていたいねってキャッキャうふふと言ったような気がするけど、

初恋っていうものは往々にして叶わず、それゆえに、思い出の中で反芻するたびに眩しいくらい美化する傾向があるので違うかもしれん。

鼻くそほじりながら、宮脇綾子を読んでたかもしれない。

真実はわからないんだけど。クーネルだって間違った断捨離で全部古本屋に二束三文で売り払ってバカっ!!!!!バカっ!私。

ちょうどいま東京で宮脇綾子の展示をやっていて、
みたくてしょうがないんだよね。

だからこの宮脇綾子特集のあったクーネルのことを思い出したんだ。


クーネルを読んでいた時、自分は間違いなく天才だって信じ込んでて、「批評家」なんかだっれも知らなくて、
心の震えるまま、欲望のまま、勢いのまま、おもちゃ箱とドロドロの感情とキラキラでぐちゃぐちゃのカオスボックスみたいな夢と現実の曖昧な作品を作っていた。
もうそれは多分作れないんだけど、
あの頃の「感覚」はうっすら覚えてるから、その感覚を信じて作品を作ってみようと思うよ。
いまのこの時代にあえてドロドロはねもう書く必要ないなーって思ってるしね。

さーーーて、ひとまず、ワークショップいつやろっかなー!

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