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#1-あとがき 日常と非日常

 自宅までの道のりが長い。いや、道のりは変わっていないか。自宅までの時間が長い、もっと正確には長く感じる、か。
 小学校何年生だったか「みはじの法則」というのを習った。道のり、速さ、時間の関係性を表した法則だが、これによると時間が長くなるということはつまり、速さが遅くなるか、道のりが長くならなくてはならない。会社も自宅も移動手段も何も変わっていないので、速さも道のりも変わっていない。「みはじ」はこれまで通りのバランスを保ち、法則性を守っている。にも関わらず、時間だけが長く感じる。
 
 マレーシアへの弾丸旅行から帰ってきて1週間後、この旅をエッセイのようにまとめてみたいと思った。旅行の楽しさを共有したい!とか、旅のお役立ち情報を提供したい!とか、自己を表現したい!とかそんな大層な理由はなかった。片桐はいりさんの『わたしのマトカ』を読み終わり、角田光代さんの『いつも旅のなか』を読み始めた頃、自分も書いてみたい!と思っただけに過ぎない。
 そんな理由で書き始めて3ヶ月、2泊3日の非日常が約5万字のエッセイとして形になった。まず3ヶ月も書き続けられたことに感動した。文章を書くなんてことはほとんどしたことがなかったし、そもそもエッセイを書くのは初めての経験だった。書いてみたいという気持ちだけで書き始めたものの、どこかで最後までは書ききれないだろうな、と自分を信用しきれずにいた。
 なのに完成させることができた。これは毎週楽しく読んでくれた妻や家族、「すき」をくれたnoteの皆さま、そして都営大江戸線のおかげである。この場をお借りして大感謝させていただきたい。ありがとうございました。
 
 私はこのエッセイのほとんどを都営大江戸線の1号車で書いた。仕事終わり、自宅への帰り道、1日の中で最も疲弊していて少しだけ嬉しい気持ちの時間。仕事と家庭の境界線。日常の中で非日常を思い出し、ニヤニヤしながら書くにはうってつけの時間だった。
 パソコンの見過ぎでどんなに目が疲れていても、耐えられないほどの空腹でも、今にも意識を失いそうなほど眠くても、このエッセイを書くことはできた。日常がどんなに大変でつらくても、非日常だった時のことを思い出している時間は、それはもう非日常だった。楽しかった。
 そんな感じだったので2泊3日を書き終わった時は喪失感も大きかった。いや、書き終わった時は達成感の方が強かった。喪失感はその次の日に強く感じた。車内でやることがないのである。あれ、あれ?と思ってスマホを開くも起動したいと思うアプリがない。インスタを開いて閉じ、LINEを開いて閉じ、社用スマホを開いて仕事のチャットを返し、目が疲れたなぁと思って目を閉じた。
 日常に身を置いたままでは自宅への道のりは長すぎる。この「あとがき」は、何とか非日常を続けることはできないか、と考えた末の結果だ。だんだんと「あとがき」の終わりも見えてきている。あああああああああなどと意味のない言葉を打って、時間稼ぎをすることはできるが、その時間は既に日常なのだ。
 さてどうしよう。明日からは丸一日が日常で埋め尽くされてしまう。そして「あとがき」の締め方が分からない。2つの相反する恐怖が押し寄せてきてしまった。前者が解消されても後者が解消されなければ意味がないし、逆に後者が解消されても前者の恐怖が強まるだけである。

 ここで日付が変わった。結局よく分からなくなり昨日は「あとがき」を書き終えることができなかった。1日経って、今度は日常を書いてみれば良いのではないか、という考えに至った。客観的に自分の日常を書くのは、それはそれで非日常ぽくて楽しいのではないか、と。くどうれいんさんの『コーヒーにミルクを入れるような愛』というエッセイを読み始めたから、という理由もあるのだけれど。

 あ、あとがき終わった。

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