【短編小説】 べらだらい
僕には日課がある。
毎朝、散歩がてら近所のうどん屋さんに行って朝食を食べるのだ。
握りしめた250円と共に始まる朝にすっかり慣れてしまったけれど、はじめてのおつかいを言い付かった子供ですら、もう少しお金を持っていそうだと思うと急に恥ずかしくなることもある。
これは僕のポリシーだ。
余計なものは持っていかない。
朝からスマホに入る通知は、大抵ロクなもんじゃない。
余分にお金を持ち歩くと、ついつい、本当は必要ないものまで買ってしまう。
だから要らない。
大学生になったら、1限の授業はとらずに毎日朝寝坊してやろうと思っていた。
でも、このうどん屋さんを見つけて変わった。
「いらっしゃい」
独特のイントネーションで迎えてくれる店長さん。
「おはようございます」
そう返すと笑顔で「おはよう」といってくれる。
「いつものでいいかな?」
「はい!」
「いつもの」で注文が成立するくらいには、このお店に通っている。
ただ、常連らしく「いつもの」と注文したいのにいつも店長さんにセリフをとられてしまうのが少し不満だ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます!」
今日のトッピングは、玉ねぎたっぷりのかき揚げだ。
はみ出した玉ねぎがこんがりしていて美味しいに違いない。
口に溜まった涎を飲み込んで席につく。
「いただきます」
まずはそのままひと口。
もちっとした麺にいりこの効いた出汁がよく絡んで、口の中いっぱいにつゆの香りが広がる。
これだ。
僕はこれを毎朝楽しみにしている。
この食感と香りが癖になる。
かき揚げは見た目を裏切らず、気を抜くと口が切れてしまいそうなくらいカリッと揚がっていた。
甘くてトロッとした玉ねぎで舌を火傷しそうになる。
美味しい。
途中でねぎ、生姜、一味唐辛子を入れていろいろな味を楽しんだ。
最後の一滴までつゆを飲み干して「ふぅ」息を吐き出したら、気持ちよく僕の一日が始まる。
「ごちそうさまでした」
お盆に250円を乗せて店長さんのところへ持って行く。
「はい、ありがとう。行ってらっしゃい」
「ありがとうございました。行ってきます!」
実を言うとこれから一度家に帰るので、「行ってきます」は変なのだけど、この「行ってらっしゃい」に送り出されて僕は大学に通っている。
トッピングは毎朝違って、わかめだったり、揚げだったり、お肉だったり。
「本当にこれが250円でいいのかな」といつも思うのだけど、一人暮らしでろくに自炊もできない僕が毎日朝食を食べられるのはあの店長さんのおかげなので、本当に感謝している。
「いらっしゃいませ」
普通のイントネーションだ。
見慣れない女の人が立っている。
「おはようござ……」
「ご注文は?」
「……かけうどん、お願いします」
「かしこまりました。250円です」
差し出された手に250円を乗せる。
「少々お待ちください」
あれ、店長さんどうしちゃったんだろう。
「お待たせいたしました」
お盆には「かけうどん」が乗っていた。
「あ、あの」
「お好きなお席にどうぞ」
僕はいつもの席に座った。
目の前の「かけうどん」をじっと見つめる。
どれだけ見たところでそれは「何も乗っていないただのうどん」だった。
何も乗っていなくてもうどんは変わらず美味しかった。
最後の一滴までつゆを飲み干した僕から漏れたのは「はぁ」と言うため息だった。
お盆を持って立ち上がったら
「あ、そのままでいいですよ。ありがとうございました」
と言う声が聞こえて、その声に押されるように店を出た。
あれ、なんだろう。
僕は、どうやって今日を始めたらいいんだろう。
僕は知らなかった。
普段、僕が食べていたのは「かけうどん」じゃなくて、「いつもの」だったんだ。
「いらっしゃい」
聞き慣れたイントネーションだ。
「店長さん!」
「うん? おはよう」
「あ、あの」
「あぁ、昨日はちょっと風邪ひいちゃってね。もう大丈夫だよ」
「そ、そうですか」
「いつものでいいかな?」
「えっと、……はい」
今日はとろろと温泉卵だ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
今日も、美味しい。
とっても美味しい。
とろろと温泉卵が溶けたつゆを飲み干した僕は「ふぅ」と吐いた息を、また大きく吸い込んだ。
「明日も、店長さんに会いにきます!」
250円が乗ったお盆と共に差し出された言葉に店長さんは驚いた顔をした。
それからにっこり笑って、
「べらだらいねぇ(とてもおもしろい)」
そういって、いつものように送り出してくれた。
こうして、僕の素敵な一日が始まる。