#404 ふぁうんど
こんにちは、鏑木澪です。
何を飲み食いしても見事に喉に詰まらせて咽せ返っている今日この頃。
(もはや空気すら喉に引っかかる笑)
喉がガビガビでつらいでございますよ、とほほ。
”歌ってみた”に挑戦し始めてから、YouTubeでボーカル・ボイストレーナーがアップしているウォームアップ系の動画、ピアノに合わせて声を出すことをできるだけ毎日するようにしていました。
ずっとお世話になっている動画は、女性向けのA3〜E5を様々な発声で往復するものです。
この範囲を完璧に、思い通りコントロールできるようになれば、大抵の女性ボーカル曲は歌えると思われます。
……いや、下はともかく、上はもっと必要な場面が多いんだよな。。。
欲をかきまして、G3〜C6を対象にしている別のトレーナーの動画を併用するようになりました。
最初は調子が良くて(自分の感覚、声の出しやすさの意味であって、実際に出ている音が改善していたかは不明)、「おう、このままだったら、3ヶ月後には高音までトゥルトゥルの声になるかもしれん……えへへ」などと呑気に思っていました。
根拠のない自信って、いいもんだわさ。←
結論から言いますと、今の私とは相性が悪かったようで、2週間経った頃から違和感を覚え、3週目で喉の痒みと痛みで動画のメニュー(7分間)を最後までこなすことができなくなりました。
1週間、歌うのをやめて、できるだけ声も出さないようにしたけれど、
……全然治らないんだな。泣
(どうしてその状態で録ったの、昨日の歌みた)
いやになっちゃうわ!ッ
動画内でも注意喚起されていたし(誰にでも完璧にフィットするメニューではないと思うから、自分で様子を見てくださいね、と)、違和感があったのに、さっさとやめなかった私が悪いです。
できないことをできるようにしようとする段階で、負荷がかかっているから一時的に調子が悪いのか、間違ったやり方で身体を壊しかけているのかの区別がつかない。
これだから困るわよ、素人は!
(自分に向かって言っております)
……まぁ、あの、私は素人や初心者と呼ばれるところを抜けても、そういうことをしがちなので、たんにそういう人間なのかもしれません。笑
(一般的にはどうなんだろうか、、、)
スポーツをしていた学生の頃だったらば、絶対病院に行っているレベルの不調なのですが……いい歳こいて、怖くて病院に行けません。←
だって、あの人たち「休め」しか言わないじゃん!ッ
(そこかーい!←横着なこと言ってすみません、)
「休め」よりも「やめろ(何もするな。2度とするな)」に近いことを言われたこともありました。当時は、理解できずに腹を立てることもありましたが、その競技をやめて数年経った今、症状が劇的に改善していたり、発作?(そんな大層なものではないけど、短期間に繰り返し症状が出てしまうこと)がなくなったり、
……なんだ、やめればよかったのか、それだけのことだったのか、と。
終わってみれば、そう思わなくもないです。
日常生活には全く支障がない状態で呑気に暮らせるようになったからなぁ。
薬やリハビリは魔法じゃないので、それではどうにもならないこともある。
自分の足で歩いて、物を運べるって、存外、幸せなことなんですね。
(私は、できなくなるまで気づかなかったよ)
特定のことを諦めれば、その”幸せ”が得られると知っていても、やめられない、続けたいと思ってしまうタイミングはあるし、それが過去になっても、振り返るたびに感情が上書きされて、本当のところ自分がどう思っていたのか、どうすればよかったのかは、わからないままです。
あぁ、僕はどうすればいいんだぁ、うわぁ〜
(脳みそがどこかに家出しました←)
うん、話を大きくし過ぎている。
大したことないんだ、大丈夫だ、私。
『I Am: Celine Dion 』を観ました。
名前こそ聞いたことがあるものの、”『美女と野獣』『タイタニック』の曲を歌っている人”くらいの認識しか、私にはありませんでした。
パリオリンピック(2024)の開会式で『愛の讃歌』を歌唱していたのが記憶に新しいです。我が家では、「あれ、この人ってフランス語ネイディブだっけ?(英語の印象が強い)」と的外れな会話が飛び交い、闘病中であることなど露知らず、
さすが、歌えるんだねー!ッ
感心しながら、のほほんと聞き惚れておりました。
(祖母がテレビをつけていて、たまたま見たら歌っていた。ナイスタイミング!)
”闘病中”という文脈を知っていれば、また違った聞こえ方をしたのでしょうが、知らなくても感じるものはありまして、「人生(困難を乗り越えてきた人)の音がするわ」「どんな歳の重ね方をしてきたんだろうか」と思いました。
個人的な印象ですが、どうしても女性アーティスト、特に自分の声を楽器として使っている人は、”楽器の寿命”を意識しながら暮らすことになると思います。
加齢や出産による音色の変化、世間の評価。
どれほど気をつけていようと、本人の意思とは関係ないところで移ろい、誰よりも自分自身が受け入れ難い状態になる。
”受け入れ難い”かどうかは、その人の考え方によるでしょうが、自分の理想とする音が出る状態を知っているのに、それができなくなってしまったら……私はとても、許容できそうにありません。
んー、今の私には到底無理です。
(そもそも理想の音が出てないから大丈夫←)
歳を重ねても、同じ声(音色)を維持していることにも価値があり
歳を重ねて、相応の変化がある声にも価値があり
どちらにしろ、長く使い込まれてきた楽器とその奏者だからこそ奏でることのできる音に心を動かされる瞬間があります。
完璧に整った美しいものだけが良いかといえば、そうではない。
(そもそも”完璧”ってなんだべ)
何を以って音楽、芸術とするのか。
誰のためのものなのか。
各々が信じる道を進めば良いはずです。
ちらつく障害物に気を取られ過ぎないように、気をつけなくちゃ。
俺の道だー!ッ
ヘンリー・ダーガーという人がいます。
私が子供の頃に考えた”理想の生き方”、創作家として最も誇らしい状態です。
”他者に認識されなければ存在しないのと同じ”
このような考え方が吹き込まれる以前の私は、自分が作った物を人に見てもらう必要性を感じていませんでした。
その後、自分自身の存在を否定される出来事も重なって、決して大人数でなくていいけれど、誰かが見てくれる可能性のある場所に、何かを置いておきたいと思うようになりました。
単純に、私は”たった一人で”せっせと作品を紡ぎ続けられる人間でなかったのもありますが。笑
この記事も、こんなに長々と書いてしまっているのに、
ここまで読んでくれたあなた、ありがとう。
上に書いたドキュメンタリー映画で、セリーヌが
こう言っとりました。
這って進むと笑われるものですが、あたしゃ、その先の景色を見たいよ。
口や文字でツベコベ言ってないで、早よ作りなって話なんですがね。←
今年は、夏になってからの体調が比較的良いです。
喉の調子はちょっとアレですが、我が家のボカロちゃんたちはいつでも快調であるし、他にもやりたいこと・できることはあるから、やっていきます!
ではでは〜