書くことを学びはじめた理由
つい最近まで「ライティングチャレンジ」というTwitterやnoteのライティング講座を受けていた。
講座を受けた理由は、文章力がなさすぎて爆泣きする夜を、もう過ごしたくなかったから。
何があったのか
私は、自分の英会話サービスを立ち上げるべく、そのサービス内容や価格を書いた文章を作っていた。いわゆる、セールスライティングだ。
セールスライティングは、その名の通り、なにかを売るために書く文章。人になにかを訴え、買うという行動に移してもらわなければいけない。このライティングをするためには、構成や他社のリサーチなど、色々と考える必要がある。だけど、この夜は、そんなこと知らなかった。でも、自分ではがんばって書いたし、5000文字くらいあったし、完璧だと思っていた。
そう。自分でがんばったから、良い文章だと思っていた。
私のパートナーに、文章の添削を頼んだ。ちなみに、私のパートナーは、ライティングの専門家だ。めちゃめちゃ見られているWebメディアの編集長(月500万PVってすごい、の?多分すごいんだと思う)をしていたり、メディアの立ち上げをすべく何十万文字にもわたる記事を執筆していた。そう、ライティングのプロ。編集の鬼だ。
プロの鬼(言い方)である彼氏に対して軽く、「ねぇねぇ。セールスライティングしたの!添削お願いしたい!」と言ったことが、この夜のはじまりだった。浅はかだったな、あのときの私。
そこから、Googleドキュメントの編集機能を駆使しながら、右、左、上、下、と赤が入れられた。PCメガネの奥にある目はするどく、私の文章を直し、指示し、5分後にはドキュメントが真っ赤だった。
愕然とした。私って、文章書けないんだっけ?がんばったんだけど!
その後、めっちゃ泣いた。
良い文章は、がんばった文章ではない
その夜書いた文章は、文字は並んでいたので、何かを読めたと思う。だけど、肝心な人の心に刺さり、購買意欲をかき立てるところからは、遠い場所にいた。つまり、文章を読んでもらう目的が、無視されていた文字の列だった。
そもそも、テレビ、本、YouTube、SNSなどが人の時間を奪いあう中で、私の文章も読んでもらおうとしている。時間の奪い合い毎日の中で、読んでくれる人が読みたい!と思い、読み続けてくれる文章じゃないと、読まれない。読まれない文章は、良い文章にもなれない。
良い文章とは何か?それは、読んでくれた人それぞれの解釈があると思う。でも、そもそも読んでもらえない、あるいは読むに耐えない文章は、ただの文字の列になってしまう。
自分ががんばったかなんて、どうでもよくて、読んでくれる人のことを考えるべきだった。そんなこと、その当時は分かってなかった。
だから結局、がんばった
文章に赤が入りすぎて爆泣きした夜。編集の鬼に「文章力なさすぎ」って言われた気がした夜(言われてない)。もうこんな夜は、嫌だ。わたしは、読んでもらえる文章を書きたい!わたし、強くなる!もう、泣かない!
ライティングスキルを身につけた理由は、肝心のセールスライティング力を上げて、サービスを売るためではなかった。ただ、泣きたくなかったからだ。
泣きたくない!と決めた後は、読まれるライティングの手法を学び、アウトプットをし続けた。3ヶ月に渡るライティングチャレンジを経て、noteもいくつか公開した。今では、泣くこともない。
むしろ、さっき、編集の鬼から「本当にライティング上手くなったよね!」とお褒めのお言葉をいただけた。どうしよう、嬉し泣きしそう。
後日談
編集の鬼が、このnoteを読んだあと、ふと言いました。
「ちなみに、前のライティングを添削した時は、気を使ってあまり赤を入れないようにしたんだよ」
ねぇ、その情報いる?
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