二本松桜紀行~2024(前編)
4/10、またまた二本松に行ってまいりました。少し前に、睦会から城報館の「新しい企画展」のお知らせを頂いていたのと、少し先に「鬼と天狗」の作中に入れる予定の、鳴海夫婦のデートシーンの検証も兼ねて取材に行ってきたわけです。
で、どうせならば「リアル霞ヶ城」を見ようということで、開花のタイミングを見計らいつつ、10日に二本松を訪れてきたのでした。
二本松神社
今回は特に電車にまつわるハプニングもなく(→このところ割と多かった)、9時過ぎに二本松に到着。丁度桜スポットを巡る臨時バスも運行されていたのですが、私は例によって駅前で電動アシストを借りました。
最初に訪れたのは「二本松神社」。特に桜の名所というわけではないですが、二本松の総鎮守でもあるため、道中の安全祈願も兼ねてお参りすることにした次第です。
奥に、桜が咲いているのが確認できますでしょうか。そして、ここも二本松藩の庇護を受けた社(当時は「両社山」の名でした)であるため、直違紋が確認できます。
最近、歴女仲間の千世さんが「狛犬に夢中」ということで、私も撮影してみました(^^)
もっとも、これは比較的新しいようで、特に歴史的建造物……というわけではないようです。
奉納は、昭和15年。まあ、二本松は戊辰戦争でかなり焼き尽くされたので、狛犬が新しいのも止むを得ないのかもしれません。
拙作関連では、「直違の紋~」の主人公である武谷剛介のお父上(半左衛門様)が、ここで「軍監」として戦闘に加わっていました。ちなみに、ここを守っていたのは二番組番頭である「日野大内蔵」。その大内蔵の介錯をしたのは、木村銃太郎の父である木村貫治だったと伝えられています。
……とまあ、血生臭い歴史もあるのですが、この日は天気が良いからか、はたまた仏滅で料金が安かったのか?思いがけず、結婚式と思しき和装の夫婦の姿をお見かけしました。
平日なのに?と不思議でしたが、スタッフらしき人に尋ねたところ、結婚式の前撮りだったとのこと。それでも、少し前に「鬼と天狗」の最新話で「鳴海の義姪の嫁入り支度」の話をアップしていたこともあり、しばし花嫁の着付けになどに見惚れてしまいました。
大隣寺
今回絶対に訪れようと決めていた場所の一つが、「大隣寺」です。言うまでもなく丹羽家の菩提寺でもあり、多くの二本松藩士や少年隊のお墓がある寺院。
秋に訪れたときは公孫樹が降り注ぐのが印象的でしたが、ここの枝垂れ桜が見事だろうというのはその時から想像できていましたので、楽しみにしていたのです。
前日に結構ひどい雨が降っていたので、「花散らし」の雨とならないか心配でしたが、10日は気温も上がり、穏やかな天候でした。
枝垂れ桜は概ね早咲きの「エドヒガン系」のためか、盛りを過ぎて少しずつ散り始めていたものの、十分に美しい姿を保っていました。
側で見ると、その枝ぶりは見事です。
そして、少年隊の墓前で手を合わせた後、ついつい裏山の墓地へ足を伸ばしてきました。
秋にも訪れた場所ですが、大隣寺の墓地はかなりの広さがあり、まだ出会えていない墓標もかなりあったと感じていたのです。
その中で見つけたのが、「二階堂家之墓」。右側にあるのが、木村砲術隊副隊長だった「二階堂衛守」のお墓です。もっとも、「鬼と天狗」の中では「大谷鳴海の義弟」と言った方が、わかりやすいかもしれません。
多分、前回(2023年秋)に訪れたときには、気づかなかった気がします。
そしてこの墓標が建立されたのが、令和3年と比較的新しいのが印象的でした。そこでふと思いついて墓石の横を見たところ、「28代信義の次男少年隊副隊長信近(衛守様の諱)の代に至り二階堂の姓に復する」との文言が。
実は、「鬼と天狗」の「鳴海と衛守は義理の甥と叔父」という設定は、従来の説では異説ともいうべき設定です。通常は「衛守は鳴海の弟」と言われることが多いのですが、どうもこの墓石の文言からすると、「義理の兄弟」という方が正解な気がします。5番組の番頭であった鳴海の名前が「兄」として墓石の銘文に出てこないのも、不思議ですしね。
28代信義が江口家から養子に入った人だというのは、「鬼と天狗」のヒントを下さったH様が突き止めていますので、やはり、衛守様と鳴海様は父母共に別のような気がします。
さて、この図にはありませんが、もう一つ私にとって重要なお墓を見つけました。それが、こちらの「大谷元綱之墓」です。
「元綱」というのは、幕末期大谷本家の当主であった「大谷与兵衛(元清)」の次男の諱。「鬼と天狗」では、「右門」の通称で登場しています。
右門については二本松藩の歴史でもあまり扱われることがなく、彼の存在自体は本宮町史の天狗党出征メンバーなどで確認していたものの、いかんせん次男ということもあり、兄の志摩よりも扱いが雑というか^^;
ですが、戊辰戦争の城下戦で遊撃隊を率いて戦死した兄(志摩)に替わって大谷本家を継ぎ、その後本家の池で鯉を育てたのをきっかけに、養鯉業で一財産を成したという人物です。右門が「お魚マニア」という裏設定は、この戊辰戦争後の右門のエピソードを元にしたもの。
ですが今回、彼の墓標を見て初めて右門の享年や生年が分かった次第です。
→各種資料では確認できなかった……。
墓標を見る限りでは、享年は明治25年で47歳。ここから逆算すると、元治元年(1864年)の天狗党の乱のときには、19歳で初陣を飾ったことになります。二本松藩では番入りは「二十歳」が基本ですが、「入れ年制度」(2歳サバを読む制度)を適用したと考えた場合、18歳で番入り。正に「鬼と天狗」の記述通り、文久3年に番入りした計算です。
戊辰戦争の後(多分)は、貞子さんという奥様を貰っていたようで、墓石に堂々と名前が並んでいるところを見ると、なかなかの愛妻家だったのかもしれませんね。
(→この時代にしては、名前を並べて刻むのは多分珍しいです)
西谷・龍泉寺
次に、大隣寺脇の坂道を登っていって訪れたのは「龍泉寺」。ここも秋に訪れて「花手水」や鹿威しを紹介していますが、今回のお目当ては「西谷の棚田」&「翔龍桜」でした。
秋に龍泉寺を紹介したときにも触れましたが、龍泉寺から霞ヶ城の「本丸」は、割と目と鼻の先です。
そして、「春は霞がたなびくように桜が咲く」と称されたことから、「霞ヶ城」の愛称がつけられたという、二本松城。この写真からは、そのネーミングの由来の雰囲気が感じ取られるのではないでしょうか。
また、下にある三の丸などと異なり、本丸は丹羽氏の入部以前から残っている場所です。丹羽光重公が奥州街道の「付替え」(要するに大規模な道路工事)をするまで、奥州街道はここを通っていました。
西谷の「棚田」を潤している二合田用水は、幕府に内緒で引かれた用水とのこと。
そして、この「棚田」の辺りに植えられた菜の花や河津桜(花期が早いので、既に終了していました)が、近年「隠れた花の名所」として人気急上昇中らしいです。
ご覧のように、西谷の光景は本当に「春の里山の風景」そのもの。奥に見えるのは、安達太良山系の残雪です。
さらにそれだけでなく、左手に見える「名もなき一本桜」と思った見事な桜は、どうやら「三春滝桜の孫ザクラ」と言われているのだとか。
うぐいすを始めとする野鳥のさえずりや蛙の声が響き渡り、うっとりするような春の雛の地の一コマです。
翔龍桜
今回龍泉寺を訪れたのは、第三章で使おうと思った「鳴海夫妻のデート」の舞台が、龍泉寺だからです(笑)。
もっとも江戸時代の武士は、男女で連れ立って歩くのは「恥ずかしいこと」とされ、そもそもデート自体が成り立たなかったそう^^;夫婦になってからもそれは同じだったようなのですが、それでもどうしても「夫婦の一コマ」を書きたくて、夫婦揃っての「寺詣で」くらいならば、あの当時でもギリギリ許されるのでは?(そもそも正式な夫婦ですし)と思い、鳴海の自宅のある一之町から適度な場所にある名所ということで、龍泉寺を選んでみました。
そして、若干ネタバレ気味になりますが、夫婦の会話の中で出てくるのが「佐久間織部」です。
佐久間勝親(通称織部)は、元々は日向国(現在の宮崎県)高鍋藩秋月家の生まれですが、色々あって信州長沼藩の佐久間家の養子に入った人物です。
今年の震災句を詠んだ際に、「もう一つの長沼藩」の当主としても紹介しましたが、彼が眠るのがここ、龍泉寺。どのような訳があってか織部は幕府から睨まれて改易され、二本松藩に「預け」になったのでした。
そして、佐久間織部は23歳の若さで病死。その織部の儚い一生を慰めるかのように、二本松の人々によって植えられたのが「翔龍桜」です。
この桜も多分エドヒガン系の桜だと思うのですが、織部が亡くなったのは1691年。鳴海らが生きた時代よりも約200年近く前に、植えられた計算になります。鳴海らが生きていた頃にはもう少し若い木だったとは思いますが、それでも樹齢170年前後にはなっていたはずで、その頃も人々の目を楽しませていたのではないでしょうか。
そしてご覧のように、織部様の墓標に時折音もなく花びらが舞い落ちてくるのが、印象的でした。
また、秋に紹介した「花手水」は、どうやら春でも手水場を彩っているようです。
少し分かりにくいですが、山門から参道を上がってくると小規模ながら「池」もあります。今は枯れていますが、池には蓮らしき茎が見えますし、手前には紫陽花の木が。
きっと、ほぼオールシーズン花の絶えない寺院なのでしょうね。
というわけで、長くなってきたので後編に続きます。