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リーリエ国外伝3 「狼の恋」 前編 

 アデラは顔をあげる。

 ――今週も来たね。

 陳列台をいていた手を止めて、前掛けの汚れを払った。
 小路こみちから見える大通り。行きかう街民のなかから、頭一つぶんは大きい長身がこちらへ向かってきた。外套がいとうに流れる黒髪が〈隻眼の狼アイン・ヴォルフ〉の呼称にふさわしい、青海あおうみ色の目にかかった。
 リーリエ国の王都ペルレ。
 北門に近い小路に店をかまえる、軽食の屋台。
 女店主アデラは、近づいてきたロルフに声をかけた。

「いらっしゃい兄さん、いつものかい?」
「……ああ」
「はいよ!」

 愛想よく答え、アデラはさっそく品物を準備する。
 薄パンに酢漬けキャベツを広げて、串に刺してあぶったソーセージをのせた。丁子ちょうじ入りのソースをかけて塩をふり、薄紙で包む。

「お待たせ。毎度あり!」
 
 代金と引きかえにサンドイッチを渡した。
 西方地域では定番の庶民の軽食。代金は銅貨三枚。商品を受けとったロルフは軽く頭をさげると、そのまま身をひるがえす。アーチ門をくぐって大通りへ戻った後ろ姿は、人混みにまぎれて見えなくなった。

「行ったか……」

 アデラは、ふうと息を吐く。
 ロルフがこの店に来るのは、かれこれもう十回はこえている。そのあいだのやりとりで、彼が自分を覚えていないのはわかっているけれど、やはり気が張ってしまう。
 銀杏いちょうの木が色づきはじめた十月中旬。
 小路を抜ける風は秋風となった。それでも調理用の箱型ストーブがあるため、屋台のなかは熱がこもる。アデラはうなじでくくった焦茶こげちゃの髪をかきあげた。

「……しっかしなんだろうねえ。量と値段が取り柄の店で、通うほど美味うまくもないと思うけどねえ。気に入ってもらえれば嬉しいけど、落ちつかなくていけないよ」

 アデラのぼやきの理由は、ロルフが〈昔の客〉だからだ。
 娼婦になりたての二十歳のころに相手をした、黒髪の少年。
 三十代の半ばで娼婦をやめて十年。昔の客に声をかけられることもなくなってきたけれど、屋台の場所を変える羽目になったほど嫌な思いをしたこともある。当時の客とは、なるべく関わりたくないのが本音だ。
 黒髪の少年のいまの立場もまた、アデラを緊張させる理由だった。
 リーリエ国の誇る一の騎士――隻眼の狼。火の島イグニス・インスラ全土を戦乱の炎に包んだ、十年の災禍からリーリエ国を守り抜いた英雄。シュバイン国との大決戦に勝利し、ラトマール国から南方地域の連合軍を退しりぞけた。火の島の歴史に名を残すだろうたぐいまれな騎士に、娼婦あがりの屋台の女店主が近づくなど、恐れ多い気さえする。
 夕の鐘が鳴った。
 日暮れの迫る小路に、かしましい足音がひびいた。
 裏路地から年若い娘たちが駆けてきた。派手なドレスに外套をまとった彼女たちは、角の娼館で働く娼婦だ。結いあげた髪から花香かこうの匂いをふりまき、陳列台に身をのり出すようにたずねてくる。

「ねえねえさっきの!」
「店の二階から見えたのよ。ここにきてたでしょ! 黒髪で隻眼せきがんの男前!」
「あれじゃないの? ほら、リーリエ国の一の騎士!」

 興奮もあらわに詰めよられ、アデラは苦笑いを浮かべる。国家騎士団員は素性を秘めるのが慣習だというけれど、青海色の隻眼と長い黒髪とで、その正体を察するものも少なくない。高名な騎士の通う店だと有名になるのは、元娼婦としていささか困る。
 ゆえにアデラは、どうだろうね、と首をかしげた。

「たまにくる客だけど、長い戦争のせいで、義手ぎしゅ隻眼せきがんの兵士も珍しくはないしね。まあ本物の〈隻眼の狼〉ならこんな屋台の軽食じゃなくて、お貴族さまの屋敷で歓待料理を口にしてるんじゃないかい?」

 娼婦たちは、あーあ、という顔で肩を落とした。

「まあそうよね。国の英雄は、安っぽい歓楽街になんか来ないわよね」
「だってあれでしょ。隻眼の狼は、クロッツ国軍務卿ぐんむきょう令嬢への婿入りが決まってるんでしょ?」
「ええ? わたしはラトマール国の王女との縁談って聞いたわ。……あれ? マルモア国だったかしら?」

 口々に言いあう彼女たちから、アデラは注文を聞く。
 厚切りハムに鶏肉にチーズ。好みの具材を薄パンに挟んでいると、娼婦の一人が顔をらしていることに気づいた。まだ十代だろう若い娼婦は、いびつに膨らんだ頬をなでた。

「……昨夜の客にやられたの。ここ最近、王都に流れてきた元大工なんだけど、戦乱で指を失くしたとかで、自棄やけになったんだか酒浸り。些細ささいなことで手をあげてくるのよ」

 商売道具なのにさ、と眉をひそめる。
 戦乱が終わって三年目。国家連合リントヴルム中興ちゅうこうの祖とされるオラニフ議長のもと、火の島は平和を取り戻しつつある。しかし長い戦乱は、人々に深い爪痕つめあとを残した。四肢を失くした元兵士を街で見かけぬ日はなく、心に傷を負ったものもいる。娼館で働く娘の多くもまた、畑を焼かれ家族を奪われ、生きるために身体を売るしかなかったものたちだ。
 やがて娼婦たちは、サンドイッチをほおばりながら裏路地へと去っていく。
 毎度あり、と見送って、アデラは大通りに向きなおった。
 秋の夕暮れ。
 先ほどロルフが帰っていった大通りは、早々と街灯がいとうがつけられている。家路を急ぐ街民のあいだを、夜会に向かう貴人の馬車が駆け抜けていく。一方で娼婦たちが消えていった裏路地は、そろそろ客引きが店の前に立っている。手提灯てさげとうかがげ道ゆくものに声をかけ、薄ぼんやりと灯がともる娼館へといざなっていく。
 そうしてアデラ自身は、大通りと裏路地をつなぐ小路にいた。
 戦乱の災禍に見舞われるなか、弟妹を育てあげ、親が残した借財を返し終えたのは十年ほどまえのことだ。地方の街で酒場女として働き、砦兵とりでへいとの結婚話が娼婦だった過去を理由に白紙になり、そのときの示談金で王都ペルレに屋台の出店許可を買った。
 大通りに店を出すことはできなかった。
 弟妹のためだと胸を張っていた――張るしかなかった若い時分じぶんはわからなかった。ほんの数歩の距離にありながら、大通りと裏路地に生きるものは、やはりちがうのだ。

「……なのにここで、大通りの真ん中を歩くようなあの少年に再会するなんて、なんの因果いんがかねえ」

 アデラはぽつりとつぶやいた。
 脳裏にいまのロルフではない、当時のロルフがふと浮かんだ。

 ――騎士として、昨夜の責任をとるべきだと考える。おれはまだ未熟だが、研鑽けんさんを積み、西方地域一の騎士になることをここに誓約する。だからどうかおれと、結婚してもらえないだろうか?
 娼館の客室で床に片膝をつき、真剣な表情でそう告げた。初めて娼館を訪れた客にありがちの、若気の至りだ。彼にとってあれはおそらく黒歴史で、あとから思い出して青ざめ、求婚を断ったアデラに感謝しただろう。救国の英雄ともいえる騎士に、一度でもしまった、と思わせたのなら、妙に楽しい気がした。
 アデラは、小皺こじわの刻まれた目尻をゆるめる。

「……そう考えれば悪くもないか。向こうはわたしを忘れてるし、来月は西方地域杯がある。騎士団の役目が忙しくなれば、ここに立ちよる機会も減るだろうしさ」
 
 言い聞かせるように呟くと、箱型ストーブに薪をくべる。
 日暮前後のこの時間は、アデラの店でもかき入れどきとなる。
 顔を泥で汚した人夫の集団に、小銭を数える無宿者むしゅくもの、疲れた顔の旅人や、歩行のおぼつかない酔っ払い。いらっしゃい、毎度、またご贔屓ひいきに――次々にやってくる客を愛想よくさばき、夜の鐘のころにはストーブの火を落とした。陳列台を片付け、あまった食材のかごと手提灯を持ち、アーチ門手前の脇道へと入る。
 アデラの家は裏手にある集合住宅だ。
 石壁と建物のあいだをしばらく進むと、戸板といたの裏にボロをまとった子供たちがいる。
 母親が女官だったという王弟の提言で、王都ペルレの貧民政策は手厚いけれど、ここ数年はそれを理由に、亡国の民が流れてくるようになった。アデラは食材のいくつかを、子供たちへのそばへと置く。ぼんやりと見あげてくる彼らを横目に角を曲がり、ポケットから鍵を取りだした。
 吹きつけた秋風に首をすくめ、古びた部屋の扉をあけた。
 
 
 ロルフはアデラが想像したとおり、月が変わったとたん姿を見せなくなった。
 そして大通りの銀杏が落葉した十一月も下旬となったころ、西方地域杯でリーリエ国騎士団が優勝し、ロルフが破石王はせきおうになったとの朗報がもたらされた。戦乱後に再開された西方地域杯はこれまで、キントハイト国騎士団長イザークが破石王となっていた。女神マーテルの寵愛を独占していた黒い狩人シュバルツ・イエーガーから、隻眼の狼がようやく栄光の座を奪取できたのだ。
 王都ペルレは喜びにわき、リーリエ国騎士団の栄誉を祝う優勝行進がおこなわれた。祝賀の大砲が鳴り響くなか、騎馬にて大通りを行進するロルフを、アデラは群衆の後方から眺めた。破石王になると誓った隻眼の少年は、本当に西方地域一の騎士になったのだ。
 年があらたまってもロルフは、アデラの屋台に来なかった。
 アデラはとくに気にせず、軽食を売って日々を暮らした。
 忘れるともなく忘れていた――それなのに。
 
 ◇◇◇
 
「は?」

 アデラは頓狂とんきょうな声をあげる。
 突き出されたのは花束。
 最近ではリーリエ国でも見られるようになった、ナルダ国産のチューリップ。

「……え?」

 アデラは花束を手にしたロルフを呆然と見あげた。
 いつもどおり夜の鐘ごろまで店を開き、客足が途切れたところで店じまいをした。片づけをして余った食材を籠に入れ、さあ帰ろうと外套をはおった。
 そうして振り返ったら、目の前に花束があった。

「いや……な……なんだい?」

 意味がわからず、アデラはぽかんとする。
 突如としてあらわれたロルフと、唐突に突き出された花束。代金の持ちあわせがなく、今日はこれで支払いをすませたいということだろうか。それとも町娘にもらった花束の扱いに困り、目についた自分に差し出してきたのか――
 ロルフは眉をよせた。
 気分を害したのではなく、段取りをまちがえた己自身を恥じているような顔だった。
 花束をぎごちなく胸元に引っこめる。

「……お久しぶりです」

 深々と頭をさげる。
 顔をあげたロルフは、アデラをじっと見すえて言葉をつづけた。

「二十五年くらいまえ、リーリエ国北西部の街マルネプレンで、あなたに結婚を申しこんで断られた騎士だ。当時は街騎士団に所属していて、出身は南部山岳地帯。名はロルフという。……覚えているだろうか?」
「あ、ああ」

 アデラはつられたようにうなずいた。
 大通りからは飲食店の客たちの騒ぎ声が聞こえ、裏路地からは、娼婦の笑い声が飛んでいる小路。とおりかかった酔っ払いが、ロルフの花束を目にして、下品な口笛を吹いた。フードを深くかぶっているので、〈隻眼の狼〉とは気づかれなかったらしい。

「その……なんていうか……」

 わけもなく首を横にふると、ロルフが片膝をついた。
 外套と長い黒髪が、汚れたいしだたみに流れる。
 いちど引っ込めた花束を、ロルフはふたたび差しだした。

「昨年の西方地域杯で破石王となり、ようやくひとかどの騎士だといえる自信がついた。騎士としてあらためて考えて、やはり、あなたを妻に望んでいる自分に気づいた。前に断られながらもう一度求婚する非礼は、承知している。……どうか、おれと結婚してもらえないだろうか?」

 アデラの手から食材の籠が落ちた。
 
 ◇◇◇
 
 ――あたしはアデラ。……そんな渋い顔するなよ兄さん。兄さんの相手をめぐって娼婦たちが大喧嘩しちまって、仕方なく女亭主が、呆れて見てたあたしを指名したんだ。
 ――あたしが気に入らないわけじゃない? 建物の匂いが嫌だ? へえ! あんた、犬みたいなこと言うね。ていうか狼か。うん、あんたなんだか狼みたいな顔してるじゃないか!
 ――この傷はどうしたんだい? 古いものみたいだけど……山熊にやられた? 騎士として未熟な証? はは、あんた真面目なんだねえ! 騎士ってあれだろ、強くなると特別な名前で呼ばれるんだろ。だったらあんたはさしずめ、〈隻眼の狼〉ってところか……。
 
 
 懐かしい夢がふと途切れる。
 まぶたをあけると朝陽が目に飛びこんできた。

「う……」

 アデラが寝返りをうつと、途端に頭痛がした。初めて客をとった翌日か結婚が駄目になったときか、ともかく久しぶりの酷い二日酔いだ。
 立てつけの悪い鎧戸よろいどから差し込む陽光に、長寝をしすぎたと舌打ちする。貧民街にある集合住宅は安家賃だが日当たりが悪い。建物のあいだから陽光が入るのは午後だけだ。つまりはもう、仕入れに行く午前の鐘を過ぎている。

「ていうかこの頭じゃ、さすがに今日は店を出せないか……」

 はあ、と深い溜息をついて髪をかきあげた。
 のろのろと立ちあがると、木桶きおけにいけた花が目に入る。赤に桃色に黄色。早春に咲くチューリップはナルダ国の改良種だ。現国王の妹がナルダ国王妃となった縁で、もたらされるようになった花苗の一つ。値段はおそらく一本で、アデラの店の軽食二個ぶんをこえる。

 ――一週間後に、また来る。……返事はそのときに。

 放心状態のアデラに、ロルフはそう告げて去っていった。
 あのあとどうやって自宅まで帰ったかほとんど記憶がない。いつもどおり余った食材を、路地裏で寝ている子供たちに籠ごと渡して仰天された。帰宅して腰が抜けたように座りこみ、買い置きの酒に手をのばした。
 飲まずにはいられなかった。
 ロルフは去年の夏ごろ、市場いちばで食材を仕入れていたアデラを偶然に見かけ、己の知るアデラだと気づいたそうだ。国家騎士団員になるため町を離れたあとも、アデラのことは息災であるか気になっていた。元気かどうかが知りたくてこの屋台に足を向け、そのうちに、ふたたび求婚したいと考えるようになったのだという。
 ずっと黙っていたロルフも、気づかれていないと思いこんでいた自分も、馬鹿々々しくて腹がたった。唐突な求婚には驚愕きょうがくし、まったく意味がわからなかった。なんなんだ、あたしがなにをしたっていうんだ、と酒壺をあけた。わーわーと騒いで床を叩き、うるさいよ、子供が起きちまうと、隣室の住人に怒鳴られるほどだった。
 そうして二日酔いの朝。
 鎧戸の隙間から差し込む陽光に、瑞々しい花弁はなびらが輝いている。
 アデラは調理場の水瓶に向かい、柄杓ひしゃくを突っこんで立てつづけに飲んだ。
 一息つくと、酒精しゅせいの残る息が水面を揺らした。
 アデラは水瓶に映った自分の姿を見おろす。
 切れ長の目に高い鼻筋と肉感的な唇。顔立ちこそ看板娼婦だった当時と変わらないけれど、肌はくすみ、目尻には小皺こじわが目立ってきている。腰までうねる髪はつやめきを失い、豊満な肢体したいも、往時の張りを失って久しい。
 そんな己を目をそらさずに見やり、アデラはロルフを思い浮かべる。
 隻眼の狼は剣技だけでなく容姿をも天の恵みを受けている。秀麗にととのった顔立ちに青海色の隻眼と、黒髪が流れる騎士人形のようにすらりとした長身。年を重ねてもなお磨きあげられていく身体は、四十代となり重厚感を増した。迂闊うかつに触れるのもはばかられる、狼の王のような貫禄があった。
 そんな隻眼の狼と、娼婦あがりの屋台の女店主。

「……受けられるわけないじゃないか」

 アデラは力なく呟いた。
 髪をかきあげると二日酔いの頭が痛む。承諾できるはずのない申し出をして、こんなにも人を悩ませている。しかも一度目じゃなくて二度目だ。

「あのときだって……!」

 最初に求婚されたときは、いつもの勘違いだと思った。初めて娼館を訪れた客が、相方あいかたとなった娼婦を運命の女性だと思いこんでしまう。だから、あんたは冗談がうまいね、でも求婚には花束がないとね、と笑い飛ばしてやった。一夜の夢などすぐに覚めると思っていたけれど、次に店にきたロルフは、馬鹿正直に花束を抱えていた。
 アデラは厄介なことになったと焦った。
 十五歳で街騎士団の主力騎士となった少年には、きっと輝かしい未来がある。だから怒ってみせた。子供がなに言ってんだ、売れっ子のわたしがあんたなんか相手にするわけないだろうと。
 ロルフは若者らしい正論を口にした。こんな仕事は早くやめるべきだ、あなたの両親の借金も弟妹の生活費もおれが稼ぐ――己の存在を根底からくつがえす言葉に、アデラは形だけではなく真剣に激怒した。馬鹿にするな、と花束を投げつけ、ロルフを娼館から追い出した。ロルフはあとから謝りにきたが、ふたたび喧嘩になっただけだった。
 承諾できないアデラの気持ちを、ロルフは察しなかった。少年のころは仕方ないと諦めて、けれど国の英雄になっても、まだ理解していないというのか。

「ふざけるんじゃないよ。なにが隻眼の狼だ。なにが西方地域の破石王だ……!」

 憎々しげに吐き捨て、アデラは丸卓に向かう。
 チューリップを投げ捨てようと手をのばし、寸前でやめた。
 少年ロルフの真剣な顔。
 壮年ロルフの真剣な顔。
 姿形が変わっても同じ、青海色の隻眼に宿る光を思いだす。
 アデラは、はあ、と深い溜息をついた。
 瑞々しく咲きほころぶチューリップ。捨てなければ生きてこられなかった、娘としての感情のような花から顔をそむける。

「……まあいい。どうせそのうち枯れるんだ」

 一週間後にロルフが屋台にきたら、きちんと求婚を断ろう。
 そうして今度こそ忘れるのだ。少年は陽の差す大通りに、自分は薄暗い小路に。たまさかに交わった道はふたたび離れ、あるべき場所に帰っていく。
 アデラは寝台に戻ると布団を頭からかぶった。
 過去も未来も複雑な感情も、すべてを拒絶するように目を閉じた。
 
 

 まだ冷えこむ​早春とあって、チューリップはゆっくりと開花した。
 五分咲きから七分咲き、そして約束の一週間目の朝には、完全に花開いた。
 アデラは女店主としていつもどおりに店を開き、ロルフの訪れを待った。
 そして――いつもとちがうことが起こった。
 

後編