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リーリエ国外伝3 「狼の恋」 後編
◇◇◇
「キャ――――!」
悲鳴が飛んだ。
「!」
アデラはおどろいて布巾を落とした。
なんだい、と屋台から身を乗りだす。昼の客があらかたはけ、陳列台を拭いていたところだった。
裏路地から若い娘が駆けてくる。寝巻きの裾をからげて必死に走ってくるのは、常連客の娼婦だ。後ろから追ってくる男を見たアデラは、陳列台の脇から飛びだした。
「どうしたんだい!?」
若い娼婦はアデラを見ると、おかみさん、とすがりついた。
怯えきった顔には白粉が中途半端に塗られ、殴られたような痕がある。アデラはこの娼婦がまえにも、顔を腫らしていたことを思いだした。靴音高く追ってきた中年男を見やれば、長剣を手にしている。
中年男は、荒い息を吐いて怒鳴った。
「そこをどけ! ちくしょう、せっかく寄ってやってのに、なにがまだ準備中だ! たかが娼館が客にむかって、もったいぶりやがって!」
娼館が開くのは夕の鐘が鳴ってからで、いまは午後の鐘が鳴ったばかりだ。中年男からは濃い酒の臭いがする。身支度の途中らしい娼婦の様子から見て、酔ったいきおいで店におしかけ、揉め事になったのだろうか。
アデラは若い娼婦を庇うように立った。
裏路地の方では高齢の娼館主が、付近の店のものに助けを求めている。大通りでは街民が、なんだ、喧嘩か、と足をとめている。おそらくそのうち、騒ぎを聞きつけた警吏が駆けつけるだろう。
アデラは長剣に注意しながら、落ちついた声で語りかけた。
「とりあえず物騒なそいつをしまってくれないかい? この娘だって、旦那に会うために身支度をしてたんだ。花が咲くまえにのぞき見するのは、野暮ってもんだろう」
「うるさい黙れ!」
中年男は長剣をふりまわす。
酔っているので手元は覚束ない。
切先が石畳を打ち、ひい、と娼婦が悲鳴をあげる。中年男はアデラに長剣を向けた。柄を握っている右手は、二本の指がない。
「おれは国のために従軍して怪我をしたんだ! そのせいで仕事もなくして、女房も子供も出ていった。王都でのうのうと守られてたおまえたちが、生意気を言うな!」
「そりゃあ気の毒だったね。だけどこの娘も遊んでるわけじゃない。あんたと同じで、食うために食わせるために、懸命に生きてるんだよ」
「なにが懸命だ! 男と寝るしか能がない、裏路地のゴミのくせにふざけるな! おまえみたいなばばあに用はない。さっさとその女を――」
声高にまくしたてて、中年男は、うん、と眉を動かした。
酒精で赤らんだ顔を、唐突に突きだした。
「……おまえ、まさかアデラか?」
「え?」
「ほら、マルネブレンの街で看板娼婦だった。……焦茶の髪に鳶色の目。やっぱりそうだろ!」
「――……」
アデラはゆっくりと口をあけた。
中年男の卑しい顔つきに、記憶のなかの面影がかさなる。街の教会を修繕にきていた年若い大工だった。酒癖が悪く乱暴で、ほかの娼婦たちに嫌われていた――
中年男は、こんなところで会うとはな、と汚れた顎髭をなでる。
前掛け姿のアデラに目をとめると、背後の屋台を一瞥して笑った。
「はは。大商人から領主まで贔屓にしてたアデラが、こんなちんけな屋台の店主なのか。苦労してるんだろ? それとも裏で客をひいて――」
馬のいななきが聞こえた。
アデラが視線をやると、大通りに警吏の姿があった。
リーリエ国章のサーコートをひるがえして、小路へと馬を駆けさせてくる。道をあけた通行人のなかに、頭一つぶんほど出ている長身を見たアデラは、息をのんだ。
「――あ……」
外套のフードをかぶったロルフが、じっとこちらを見ていた。
警吏に取りかこまれ、なんだよ、おれはこいつの昔の客なんだよ、と暴れる中年男の叫びを耳に、アデラの脳裏によぎるものがある。
酒場女として働いた店の常連の砦兵。娼婦だった過去を打ちあけても、関係ないと求婚して花束を差しだしてきた。けれど砦兵の両親に挨拶に行ったところ、両親が営む商家の出入り業者にアデラの昔の客がいた。両親と砦兵に頭をさげられ、アデラは示談金を受けとって街を出た――
足をとめていた通行人たちは、やがて歩きだした。
ロルフの姿は、いつのまにか消えている。
アデラは空を見あげて溜息をついた。
――断る手間がはぶけたね。
ロルフは中年男とのやり取りを聞いたはずだ。
娼婦と結婚するとはそういうことだ。
彼がこの屋台に来ることは、こんどこそないだろう。
そんなふうに思い、安堵に泣き出した娼婦を抱きしめた――それなのに。
◇◇◇
「――は?」
アデラは呆気にとられた。
夕の鐘が鳴って間もない小路の裏手。
集合住宅の前に外套姿のロルフが立っている。
中年男が連行されてのち、アデラは娼婦とともに事情を聞かれた。元大工の中年男はどうやら、ほかの娼館や酒場でも揉め事を起こしていたらしい。ようやく解放されたときにはストーブにかけたままのソーセージは丸焦げで、なによりひどく疲れていた。店じまいをして大量に余った食材を、このところ妙に増えてきた孤児たちに分けあたえ、ぐったりして自宅に戻ったところだった。
ロルフはフードを外した。
ぺこりと頭をさげると、口を開いた。
「……約束の一週間となった。求婚への返事を聞きにきた」
アデラは目元を手でおさえて首を横にふった。
どうしてここにいるのかとか、まさか帰宅を待っていたのかとか、そもそなぜ自宅を知っているのかとか。疑問が頭をかけめぐるなか、口から出たのは呆れたような問いかけだった。
「……なんなんだよ。あんたさっき大通りで、あの中年男の言葉を聞いてたんだろ? それでどうして、求婚の返事を確認しようなんて思えるんだよ」
ロルフは怪訝な顔をする。
「おれはたしかに大通りにいた。……今日で一週間だと思ったら落ちつかず、店が終わるのを待つつもりが、早く王都についてしまったからだ。だがあの男とおれの求婚に、なんの関係がある?」
アデラは、はあ、と気色ばんだ。
この男は見目と剣技こそ優れていても、人としての大切な機微が欠けているのか。なぜあれで察しない――口にするのも嫌なことを言わせようとするのか。
求婚されてからの憤りがふつふつと大きくなる。
アデラはロルフを睨みつけた。
「だから! あたしは元娼婦で、やめたからってその過去が消えるわけじゃないんだよ。昔の客に絡まれるのだって、これがはじめてじゃない。あんたはリーリエ国の誇る一の騎士で、西方地域の破石王だ。あたしみたいな女に関わっちゃ自分の名誉を傷つけるだけだって、普通はわかるだろうが!」
「それでは話がちがう」
「ちがう?」
「おれはかつてあなたの仕事を蔑んだ。可哀想だと哀れみ、あなた自身を否定した。そんなおれにあなたは馬鹿にするなと怒った。……いまならその怒った理由がわかる。そして<あたしみたいな女>というあなたのいまの発言は、かつてのあなたの発言と矛盾する」
ロルフは淡々と告げる。
痛いところをつかれ、アデラは横を向いた。そうだね、と応じて、苦いものを吐き出すような表情で言った。
「……あのときあんたに告げた言葉は本気だ。娼婦になったことに後悔もしてない。……だけど世の中は、それが認められるようにはできていないんだよ」
声にはやるせなさが混じったかも知れない。
若い時分は強気で誤魔化せたことも、なんども壁にぶちあたって、壊れた心は胸の奥に降りつもった。アデラはきっと何年たっても、大通りを堂々と歩くことはできない。仕方ないと目をそらした傷を、昔の客にもロルフにも無遠慮に抉られた。
うなだれたアデラを、ロルフは見おろす。
眉をよせて考えこんだ。
建物のあいだを吹き抜けた風が、狼の尾のような黒髪をさらった。
「……騎士が騎士を求めることの、なにが問題なのかわからない」
ロルフはやがて、ぽつりと告げた。
アデラは訝しげに問いかける。
「……あんた、なに言ってんだい」
「あなたは騎士だと言っている」
「わたしが、き、騎士……?」
「両親の借財と幼い弟妹を抱えながら、あなたは最善を尽くしてきた。与えられた状況のなかで自分のできることを、覚悟をもって貫いた。おれはその生き方そのものを、騎士として、見事だと思っている」
ロルフははっきりと言い切った。
困惑するアデラに、おもむろにうなずく。
「今日のことも、あなたは騎士だった。年若いものを庇い、当たり前の顔で男の前に立った。……未熟だったおれを、退けることで守ろうとしてくれたように。生まれも育ちも関係ない。自分を差し出せる覚悟をもったあなたは、まちがいなく騎士だ。そしておれは、己が尊敬できる騎士を伴侶にしたいと願っていた」
ロルフはすっと足を折る。
片膝をつくと、恭しく頭をさげた。
「……約束の一週間だ。求婚への返事を、どうか聞かせてもらいたい」
静かに告げて顔をあげる。
慄いて身をすくめたアデラを、真っ直ぐに見つめた。
青海色の隻眼にアデラが映る。
硬質の輝きをもつ青に射ぬかれ、アデラの胸にあのときの青がよぎった。
少年ロルフが向けてきた青海色。年をかさねても変わらない、迷いないこの目は――
――本気だ。
悟ったアデラは蒼白になった。
「ま、待っとくれよ……」
頼りなく首を横にふる。早く断らなければ、拒絶の言葉を口にしなければと思うのに、ひたむきな本気に気圧され喉がうまく動かない。
アデラはへなへなと座りこんだ。
膝を抱えて頭を伏せる。
「勘弁してくれよ……」
アデラは涙声でつぶやいた。
ロルフは同じ姿勢で、じっと返事を待っている。
建物のあいだから差しこむ夕陽が、二人の影を長くのばして一つにした。
暖かな光はアデラの部屋にも入りこむ。
木桶に生けられたチューリップは朱色に染められ、鮮やかに咲きほころんでいた。
◇◇◇
「でね、そいつったら花束を持ってきたのよ。本気だから信じてくれって!」
「ばっかみたい。娼婦が客の本気を真に受けてたら、身が保つわけないじゃない!」
娼婦たちは肩をすくめる。
ソーセージを薄パンに挟み、アデラは苦笑いをした。
「ああ、まあ、そうだね」
そろそろ夕の鐘が鳴るだろう小路。
軽食を買いにきた娼婦たちは、紅も鮮やかな唇を尖らせる。派手なドレスにまとった薄手のショールが、春風にかしましく揺れている。
「そんな意味のない本気なら、金貨の方がずっといいのにさ。金貨は絶対に裏切らない、わたしの一の騎士だもん」
「あ、そういえば聞いた? リーリエ国の一の騎士、なんでも最近、この裏路地あたりに出入りしてるって。しかも花束とか、焼き菓子の袋を抱えて!」
「うそ! ってことは隻眼の狼に、馴染みの娼館ができたってこと!?」
「どこの店だろ……。ね、おかみさんはなにか知ってる?」
「……さあねえ。娼館っても王都ペルレの北門近くには、リーリエ国騎士団御用達から、北の国の遊び人侯爵の常宿まで、数があるからねえ」
曖昧に答えると、紙に包んだ軽食を差しだした。
ソーセージと酢漬けキャベツのサンドイッチ。娼婦たちは隻眼の狼の贔屓について、ああでもないこうでもないとお喋りしながら去っていく。
賑やかな声が路地裏に消えるのを待って、アデラは肩で息を吐いた。
やれやれといった顔でこぼした。
「……やっぱり、引っ越すしかないかね」
アデラの家を訪れるとき、ロルフは気配を抑えている。優れた騎士ならできることで、よけいな騒ぎを起こさないための気づかいらしいが、それでも隻眼の狼たる外見はとかく目につく。彼がアデラの家に通うようになって三カ月。隻眼の狼に馴染みの娼婦ができたらしいと、界隈で噂になりはじめている。
アデラとロルフは結婚したわけではない。
愚直ともいえる本気に押し切られ、結局はうなずいてしまったアデラだが、籍を入れることには抵抗があった。したがっていま現在は事実婚のような形で、花やら菓子やらを手にやってくるロルフを迎えている。
夕の鐘が鳴った。
かき入れどきに向けてソーセージを焼きながら、アデラは夕飯の献立を考える。
今日はロルフがくる日だ。
自分一人なら残り物でいいけれど、騎士としてのロルフに食べさせるなら、リーリエ国民として手抜きはできない。国家騎士団はそのまま、国の軍事力なのだ。
献立については同じ騎士団員の彼の妹に教わった。義姉さまって呼んでいいですか、とはにかんだ妹が、西方地域一の射手と呼ばれる〈少年騎士〉だったことは、眩暈がするので考えない。おれの義姉さんだ、と抱きついてきた妹の夫が、四女神の裁定で賛成派を勝利に導いた、リーリエ国の王弟ラントフリート殿下だったことも、頭を壁に打ちつけたくなるので考えない。
旧シュバイン地方産の豚を焼いて、旧タルピカ地方直送の塩漬け鱈でスープをつくろうか――家にある食材を思い出しているアデラの顔に、ふと影がさした。
「いらっしゃ――……」
見あげたアデラは目を見開く。
やってきた客は外套姿の偉丈夫だった。
浅黒い肌が野生的な精悍な顔立ちに、射抜いてくるような琥珀の目。歳のころはアデラと同じくらいだろうか、口元を飾る髭に貫禄と色気がある。惚れ惚れするような男ぶりに思わず見とれ、アデラは、はっとして視線を逸らした。
前掛けで手を拭いながら言った。
「な、なんにしますか、旦那」
「そうだな。とりあえず、おすすめで頼む」
「はいよ!」
愛想よく答え、アデラは酢漬けキャベツを薄パンに広げる。炙ったソーセージをのせて丁子入りのソースと塩をかけた。銅貨三枚か、安いな、と笑った男は、さっそくその場でサンドイッチにかぶりつく。
「うん、美味い!」
大きな口であっというまに平らげ、指についたソースをぺろりと舐めた。
閨を想像させるような健啖家ぶりに、アデラはふたたび顔をそむけた。自然と赤らんだ頬をばつの悪い気持ちでかいていると、男が自分を見ていることに気づいた。
「……こっちもなんとも美味そうだな」
「え?」
「あの狼がいったいどんな〈花〉に前脚を折ったかと思っていたが、味わい深い色の、実に見事な〈花〉だ。このまま国に持ち帰りたいくらいだ……と思ったが、噂をすればだな」
薄く笑い、男が振り返った。
アーチ門の下にロルフの姿があった。
呆然とした顔で、屋台の前に立つ男を凝視している。
その手に抱えられたチューリップの花束を見やり、男が不意に身体を折った。ぷくく、と笑いをもらすと、口元を手で押さえて言った。
「いやすまん! 年上の芳醇な〈花〉を射止めたと聞き、どれだけ鼻の下をのばしているかと期待していたが、まさか狼が花を……は、花を、あの仏頂面で、花を〈花〉に!」
耐えきれないといった様子で噴きだす。
陳列台に突っ伏し、ひーひーと腹をよじらせて笑う男に、ロルフはすっと目を細めた。靴音高く屋台に近づいてくると、呆気にとられているアデラに、チューリップの花束を差しだす。
「……悪いが、夕食を少し遅らせてもらいたい」
「あ、ああ?」
アデラが答えると、ロルフは笑い転げている男の腕をつかむ。
なんだなんだ、怒ったのか、親友の可愛い冗談ではないか、軍務卿の仕事にさっそく飽きて、久しぶりに狼で遊ぼうかと、遠いキントハイト国からこうして――嬉しそうな男を引きずり、ずんずんと大通りの方に消えていく。
屋台から身をのりだして見送り、アデラは首をひねった。
「……知り合いだったのかい? 仲がいいような悪いような微妙な感じだね。キントハイト国の軍務卿って、たしか西方地域杯を連覇してた〈黒い狩人〉だった気もするけど……」
まさかいまの偉丈夫が、と眉をよせたが、そんなわけないか、と息を吐く。
アデラはチューリップの花束を見おろした。
春になり、地物のチューリップが中央広場に並ぶようになってきた。まるで年頃の娘のように初々しい、甘い芳香の花。アデラが諦めて目をそむけてきた、己には無関係だと思っていた心のような花は、この小路でもこうして咲いている。
そんなふうにまなざしを和らげると、大通りが騒がしくなってきた。
馬車が慌ただしく移動し、通行人が逃げていく。
喧嘩だ、一対一だ、はやく警吏を――飛んでくる叫び声を耳に、アデラはソーセージをかまどにくべる。
酔っ払いが道端で眠り、孤児の集団が石を蹴って遊んでいる、大通りと裏路地をつなぐ小路。決して綺麗ではない世界で、やってくる無宿人や貧しい農夫らに、アデラはてらいのない笑顔を見せた。
「いらっしゃいお客さん、なんにします?」
<完>