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リーリエ国外伝3 「おとぎ話が終わっても」 後編
カテリーナはそのまま階段をあがった。
ドレスの裾をからげたニナを連れ、最上階の廊下から小部屋へと入る。他国人であるカテリーナはもちろん、ここラクリモサ城は初めてだ。けれど迷いなく移動した彼女は、新しい建物に入るときは必ず事前に、内部構造を把握しておくのだという。
「政敵がいつどこで、わたしの皺首をとりにくるかわかりませんからね。……ここは礼拝堂での進行に合わせて鐘を鳴らすための、確認用の場所です」
カテリーナは奥の小窓をあけた。
ちょいちょい、と手招きされて歩みより、ニナはカテリーナにならって窓の外をのぞきこむ。
下方には礼拝堂が広がっていた。
侍従たちが円柱を飾る国旗をととのえ、祭壇の前では叔父公爵と司祭が、書類を手になにやら話しこんでいる。開始を前に最終確認をしているらしい礼拝堂で、式典用支柱で飾られた中央の通路には――リヒトがいた。
「!」
ニナは声をあげかけた口元に手をやる。
金髪はきっちりとなでつけ、純白のブリオーに細身のズボンと、濃紺の飾り帯が華やかな半肩布。礼服姿のリヒトは左肘を曲げた姿勢で、ぎくしゃくと通路を歩いている。
途中まできたところで唐突にこけた。
通路ぞいの椅子に覆いかぶさると、背もたれの花飾りがぽろりと落ちる。
「……なにやってんだよおまえ。本番でやったら失笑じゃなくて静寂だぞ。いくらおまえに甘い小さいのだって、青筋立てて指輪を外してぶん投げてくるぞ」
近くの椅子に座っていたトフェルが、呆れ顔で言った。
リヒトは、あああ、またやっちゃった、と頭を抱え、オドが落ちた花飾りを椅子につけなおす。
トフェルは大扉の方を見やると、よっと立ちあがった。
「もう練習はいいだろ、おれたちは行くぜ」
リヒトはあわててトフェルの軍衣をつかむ。
「待って! 待ってお願い! もう一回だけ確認させて!」
「こっちもそろそろ配置につく時間なんだよ。動き方が不安なら、叔父公爵に聞けばいいじゃねえか」
トフェルはリヒトの手を払いのけ、祭壇の方を顎でしゃくる。
リヒトは、とんでもない、と首を横にふった。
「聞けたら苦労しないって! 挙式の準備でおれがどれだけ、ねちっこい小言を言われたと思ってんの。基本礼法が入ってないとか、物覚えが悪すぎるとか、そもそも血筋がなってないとか!」
「……物覚えが悪いのは同感だな。ほら、ロルフが早くしろって睨んで……いやあれは落ちこんでるのか? まあ気持ちはわかるけどな……うん。つか副団長はもう泣いてるのかよ。顎髭がぐしょぐしょじゃねーか」
しょうがねえ奴らばかりだな、と、トフェルは肩をすくめる。
オドはにこ、と笑うと、激励の立礼をリヒトに捧げた。
去っていく二人を情けない顔で見送り、リヒトはやがて意を決したように祭壇へと向かった。司祭と打ち合わせ中の叔父公爵に頭をさげて、式での動き方を見てほしいと願いでる。
叔父公爵は故王妃の弟にあたり、兄宰相アルベルトと懇意の大貴族として、庶子のリヒトにはあたりが強い。面倒そうな顔でうなずいた叔父公爵に、リヒトは眉間をひくつかせながらも笑顔を浮かべ、言われたとおりに歩きだす。
背筋が曲がっている、目線の位置が悪い、歩幅がふぞろいだ、肘が高すぎる、新婦との身長差を考えなければ――細かい駄目出しを受け、そのたびに修正する。なかなかうまくいかず、通路をなんども往復した。くり返し、なんどもなんども。
――リヒトさん。
ニナは胸の奥が温かくなるのを感じた。
予想外の形での結婚となり、嵐にまかれるように今日を迎えた。男爵家令嬢として王籍に名を連ねること。仕方がないとわかってはいても、心のどこかに複雑な気持ちがあった。
ニナの前で完璧な王子として振舞うリヒトに、頼もしさと同時に割り切れない思いを抱いた。初めての場所で初めて見る親族に囲まれ、他人となった両親を遠く見なければならない境遇が切なかった。けれどニナをその道に導いたリヒト自身が、陰ではこうして必死に、苦手な叔父公爵に頭をさげて努力していた。
礼服のしわまで注意されているリヒトの姿に、ニナは目を細める。
静かな横顔を向けているカテリーナを見あげると、しみじみと告げた。
「……カテリーナ夫人はやはり、歴戦の古強者です」
おとぎ話ではない現実を、こうして教えてくれた。初めてのラクリモサ城をすいすいと移動した夫人は、ニナの想像もつかない厳しい現実を生き抜いてきたのだろう。けれど何事もなかったような涼しい顔で、惑うニナの背中を押してくれるのだ。
ニナの賛辞に、カテリーナは目を丸くする。
ふふ、と笑った。
「……このうえない誉め言葉ですね」
満足げな顔をすると、礼拝堂に向きなおる。
肘の位置を直しているリヒトを見つめ、まなざしをやわらげた。
「愛するもののためなら辛いときでも笑い、地べたを這いずることができる。なんともみっともなく、そして素敵な王子殿下でしょうか。生涯でたった一人にすべてを捧げる、我が夫ベルケルのように素晴らしい新郎です」
カテリーナは、おめでとうニナ、と微笑んだ。
◇◇◇
馬車がとまる。
扉が開かれると、わっと歓声があがった。
舞い散る花弁のなか、ニナは女官たちに助けられて馬車を降りる。胸に咲いた白百合のブーケが、春風に躍った。
王子妃殿下、おめでとうございますと、参列客から拍手が起こった。後方には両親の姿が見える。目元をおさえている母と、その肩を抱いている父。話すことはできないけれど見守ってくれている。いまはそれでじゅうぶんだった。ベールのなかで、ニナは潤んだ目を瞬かせる。
濃紺色の絨毯に足を踏み入れると、シュナイザー男爵の二人の子供が、ニナのドレスの裾を持ってくれた。
そろいのお仕着せを着た兄弟を引き連れ、ニナはシュナイザー男爵の手をとる。
大聖堂に向けてゆっくりと歩きだす。
左側は新婦の、右側は新郎の親類縁者。華やかな喝采をあびながら、やがてリーリエ国騎士団員が整列する階段についた。濃紺のサ―コートに式典用ケープをまとう彼らは、左右に並んで大剣を斜めに掲げている。
剣先が春の太陽に輝いた。
ニナはその下をくぐり、階段を一歩一歩あがっていく。余所行きの顔をしている中年組や、やれやれという顔のトフェルに嬉しそうなオド。兄ロルフは普段と変わらぬ静かな表情ながら、掲げている大剣がふるえていた。副団長ヴェルナーは山賊のような強面をくしゃくしゃにゆがめ、真っ赤な目で必死に涙をこらえていた。
大扉から礼拝堂へと入る。
整然と並んだ椅子には、参列者でも高位のものが着席している。故王妃の弟である叔父公爵、軍務卿に外務卿などの専門卿、団長ゼンメル、マルモア国など諸外国の外交使節、控室に集まっていた親族の夫人たち――最前列に座るカテリーナは、先ほどの盗み見が嘘のように、高雅な老貴婦人の顔で拍手をしている。
採光窓からの光が、虹色に降りそそいでいる。
楽隊の奏でるオルガンや弦楽器が、荘厳な空気で世界を満たす。
そうして祭壇の前には、純白の礼服を着たリヒトが立っている。
シュナイザー男爵が足をとめた。
一礼し、歩みよってきたリヒトに合わせて後退する。ニナの右手をとったリヒトは、そのまま引きよせるように、己の左腕にニナの右手をかけさせる。制止してから、左腕をわずかにさげた。叔父公爵の指摘どおりに位置を直したリヒトに、ニナはベールのなかでそっと笑った。
司祭の前に並んで立ち、祈りの聖句を聞きながら、ニナの指は緊張に強張るリヒトの腕を感じている。
――おとぎ話が終わったら。
待っているのは現実だ。
物語のような夢ばかりじゃない。いいことも悪いことも、割り切れないことも我慢することもある。だけどどんなときでも自分は、この腕を離さないでいたい。盾をもつリヒトの左腕。泥に倒れても立ちあがり、嵐のなかでも歩みを止めないだろう、この愛しい腕を。
司祭の合図を受け、二人は向かいあった。
リヒトが前に出て、ニナのベールに手をかける。
花嫁のベールはすべてを隠す。
ひそめていた心があらわになった。
解き放たれたニナの姿を見たリヒトは、呆けたように息をのんだ。強張っていた顔がやわらぎ、頬に赤みがさした。
ニナは微笑んでいた。
幸せな花嫁として、晴れやかな笑みを浮かべていた。
<完>