思いやりは依存の始まり。
依存について考える。
ギタリストの北島健吾です。
今回のテーマは、『依存』
依存って言葉をぼくが使うときは、一般的な依存とは意味合いが違う場合があります。
前提として、
『個人言語』というのがあります。
学生時代、現代国語で評論を読解してた時かな?
文脈を読んで初めて意味がわかることがあります。
一般的な意味ではなくて、「その人の世界の中で」生まれ生きてきた文脈に触れないと意味がわからない。そういうやつです。
では、僕個人が思う依存とは、、
関数のようなものです。
yに依存してxが決まる。
そのような関係全般が依存だと思っています。
なかなか伝わりにくいものですが、
人間の行動や成長はxとyに値をとって、座標が決まり、結ぶと曲線を描いています。(数学的にね)
数学は苦手です。むしろ嫌いです。
でも、
yに依存してxが決まる。
というクールな表現の虜です。
一般的な依存の場合は、
x=0、y=1のような関係。それ以降yが1増えるとxも1ふえるようなかんけい。yが支配的。
yが1であればxは0になってしまうんですね。
完全によりかかっている。
x=1、y=2というのも同じ曲線状にあるでしょう。
また、y=0の時はx=-1になってしまいます。
まさにネガティブな空気が立ち込めています。
「君がいないと僕は世界の終わりだ。」
という状況。重たい。
なんでこんなことを考えるようになったかというと、
昔付き合っていた彼女に、依存してるよねって言われたからです。
その時、彼女がいなければ世界が終わってしまう!っていうほどのヘビーシックにはなっていなかったはずですが、
女性はころころ気持ちが変わったりします。
それに合わせて自分が変わってしまったり、
言われないでも優しくしてあげたり。
ある程度自立しているつもりだったんですが、
依存なんですよね。
思いやりは依存である
「私の機嫌1つに左右されるような男、自分がなくてダサい。そういう気の利かせ方はつまんない。多分私に相談しないと何もできない人になってるんじゃない?そういう安心感はつまんない。」
これはガチで言われたやつ。
それから考えたのは、
ブレちゃうのは良くないってこと。
動じないってこと。
うあー、コントロールされてるー
って気がついたら、冷静になること。
なんでも考えてることわかっちゃうような人はつまんないっていう、そういうタイプの人もいるにはいるんですよ。攻略そのものを楽しみたいタイプ。
彼女の顔色を見て自分がかわるのも、寄り添っていていいことですが、依存の始まりだと思ってます。
仮に、もともと自立した1人が2人で協力しあう関係だったとします。
関係性はこういうものがいいんじゃないですかね?
xが1ならyも1、xが2ならyも2
で、強固に自分を貫くとこうです。
yがどうでてもxは変わる気がないです。
自立、まじで要塞。