『アドベンチャー・タイム』の"無"の境地皿洗い
私は米国カートゥーンネットワークが放送していたアニメ『アドベンチャー・タイム』(以下『AT』と表記)が大好きなのだが、面倒臭さの問題を考えていて、シーズン5の「迷宮列車(原題:Dungeon Train)」というエピソードのラストシーンを思い出していた。
▲この動画では前半部分が公開されている。
このアニメはスペーシーなナンセンスコメディというか、かなりぶっ飛んでいて文章で解説したり分類することが困難な作品なのだが、ざっとあらすじを説明したい。(私が持っている『AT』のDVDは英語版しか無いので、日本語版の台詞は記憶に基づくもので、精確に原典に準拠しているかは定かではない。私は吹替版を30周は視聴したが、間違っていたら指摘してほしい。付記した英語版の台詞はDVDを確認して引用した)
主人公の少年フィンと親友の喋る犬ジェイクは、環状になった線路を堂々巡りし続ける、奇妙な列車に乗り込む。その列車の車両には、どれも似たり寄ったりのモンスターがいて、失恋の傷が癒えぬフィンはモンスターたちを倒すことに夢中になる。車両を隔てる扉を開ければまた別のモンスターが、次の扉を開けても、またモンスターがいる。モンスターを倒すと、食料や武器・防具が手に入り、攻撃力を増した装備で、また次の車両の新しい敵に立ち向かえるというわけだ。どことなく、虚しい気持ちを抱えたままやり込んでしまうゲームのような風情がある。
無益で代わり映えのしない闘いにジェイクが飽き飽きした頃、フィンは倒したモンスターから未来を映す水晶玉を手に入れる。その中には年老いた自分が依然として迷宮列車でモンスターを倒している姿が映し出される。奇妙な列車の中でよくわからない敵を倒し続け、老いた身体を重装備で包んだ自分自身をを見て、フィンは「最高の人生だよ(I'm gonna have the best life.)」とはしゃぐ。その様子を見てジェイクは絶句。そしてフィンに家に帰ろうと言う。しかしフィンは耳を貸さず、ジェイクは去ってしまう。その時にジェイクが言う台詞はこうだ。「俺は家に帰って人生楽しむぜ(I'll be in the tree house, experiencing the joys of life)」。
一晩経って、ジェイクは戻ってくる。家に帰ったふりをしていただけで、フィンを放ってはおけなかったのだ。しかし、フィンは家に帰る誘いをまたしても跳ね除けてしまう。自分の行為の不毛さに薄々気付いているフィンが、溜息をつきながら水晶玉を見ると、そこには老いた自分の伴をする老いたジェイクの姿が映っている。堂々巡りをする列車の中に囚われた生活にジェイクを巻き込んでしまう未来のビジョンを目の当たりにして、フィンは考えを改める。そして列車から降りる決意をジェイクに伝える。その決意の後水晶玉に映る光景がある。それはフィンとジェイクが皿洗いをしている光景だ。2人は楽しそうじゃない。全然楽しそうじゃない。楽しいとかつらいとかそういう次元ではない"無"の表情で皿を洗って拭いている。その水晶玉を見てジェイクはこう言う。「これなら文句は無ぇ(That's what I'm talking about.)」。
私はこのラストシーンが大好きだ。素晴らしい示唆に富んでいると思う。『AT』ではお姫様を守るために悪の化身と戦ったり、世界を救うために全能の神に会って並行世界の因果律を欺いたり、蘇った強大なヴァンパイアと戦ったりするような凄まじい物語、それこそ”TVショーになるような”華々しい物語がたくさんある。しかし「迷宮列車」のエピソードでジェイクが「talking about」している「the joys of life」は、黙々と皿を洗うことを指している。その地味な営為が支えるのは、なんてことない日常生活だ。
皿洗いをしているふたりの顔は、まさしく「面倒くさいと考えることが面倒くさい」から"無"になっているのだと思う。フィンとジェイクの"無”の境地は、労働現場に湧き出す面倒くささの処理法として妥当だろうか? どうもそうは思えない。この違いについてちゃんと考える必要がある。