Visage雑記 恐怖と地図
ホラーゲームの醍醐味は、好奇心が恐怖に勝つ瞬間にあると思う。どんなゲームにも必ず「開けたくないドア」が現れるはずだ。血の手形とかついてるし、不穏な赤い灯りでライトアップされているし、お札がめちゃくちゃ貼ってあるし、「HELP」と震える文字で書いてあるし、巨大なナメクジが這いずったようなヌメヌメがドアの下から伸びてるし……といった感じのドアである。しかしそれでもそのドアを開けざるを得ないところに、ホラー映画でもホラー漫画でもホラー小説でもない、ホラーゲームの面白さがある。
ゲームの魅力は、行動の選択肢を限定しながらも、プレイヤーに「他でもない自分自身が原因と結果を結びつけたのだ」という当事者意識をもたらすところだ。そして私たちは「絶対にロクでもないことが起こるに決まってるじゃん」とぶつくさ言いつつ、ボタンを押すという能動的な働きかけをして、「開けたくないドア」を開ける。その先で何が起こるのか知りたいから。
2021年の始めに『Visage』というホラーゲームをプレイした。
一人称視点で曰く付きの屋敷を彷徨うという、1人称視点の3D ホラーだ。『P.T.』や『バイオハザード7』、『Layers of Fear』の系譜に連なるスタイルである。あちこちからする不穏な音、突然消える照明、背後で突然閉まるドア、苦しげな泣き声等々、彩り良く揃ったお約束はさながら恐怖の幕の内弁当。その幕の内弁当に、現在/過去、現実/精神世界の、境界定かならぬ往来が呼応する。私はこういう、現実というものの輪郭が曖昧になり、いつの間にか誰かの病んだ心に転がり落ちているようなホラーが大好きだ。その中で凄惨な出来事の断片をかき集めて、ドラマを想像するのが大好きだ。
▲ プレイ画面はこんな塩梅。進みたくなさすぎるが、立ち止まるのも嫌すぎる。
ホラーゲームの主人公は誰もが愚かしいほどに品行方正なので、手頃な鈍器で窓をぶち割って外へ出ようとはしないし、窓も窓で現実界に存在するいかなる防弾ガラスよりも誇り高いので、プレイヤーをビビらせる目的でしか割れない。明らかに事故物件の匂いがする建物に閉じ込められ、亡霊と呼べるのかもわからない存在の影に怯えて神経を昂らせる私は、恐怖に少しでも抗おうと、でたらめな暴言を吐きながらプレイしていたが、健闘虚しく疲弊していった。
しかしそんな中で私はゲームの攻略法を発見する。攻略法というよりは、むしろもっと大きな概念、恐怖そのものの克服法と言ってもいいものだ。
『Visage』の第2章に入ったあたり(全体の進行の三合目ほど)で、プレイヤーは住宅から離れて病院を彷徨うことになる。病室のひとつで目を覚ました私は、部屋を出るやいなや「これは地図を作らなくちゃな」と思った。
長く伸びるひんやりとした廊下の両側には扉、扉、また扉。リビング、ダイニング、寝室、浴室と、個々の部屋の用途がそれぞれ異なる家庭用の住宅とは違い、病院は似た目的の部屋が連なる構造だ。その部屋の標札も、数字とアルファベットで管理されているため非常にややこしい。
▲ 無機質な病院。奥にどなたかいらっしゃる。
このゲームで地図が用意されない仕様なのは第1章で既に明らかだったし、自分の貧弱な方向感覚では、まず間違いなく迷子になる。ゲームの性質上、空間が歪んで地図が役に立たなくなることもあるだろうが、当面敵も出そうにないし、いっちょやってみよう、と地図を描き始めた。
廊下をひとつ伸ばし、そこに接続する部屋のマスを描く。番号を記入し、中に入れれば中の様子をメモ。入れなければドアに進入禁止マーク。鍵がかかっているだけで後々入れそうなら錠前のマーク。廊下の枝分かれを辿り、ざっくりとでも整合性が取れるように部屋の広さと廊下の長さを目測する。なるほどなるほど、ここでこの廊下に合流するのね。この扉、今は鍵がかかってるけど奥に階段があるのが見えるぞ。この看板にある「Psychiatric」ってどういう意味?
そんなことをしているうちに私は気付いた。私の手元で手描きの地図が拡張されていくにつれて、恐怖が薄れていくのだ。一人称視点の前にハイグラフィックに立ち現れる不気味な病院、私に覆い被さる空間は、見取り図として描かれることによって、俯瞰された、掌握可能なものになっていった。
未知が恐怖の源であるのなら、それを既知にすることによって恐怖に抗える。症状に病名を付与することで疾患の取り扱いを容易にするように、人間は長い歴史の中で未知を既知と仮定し、様々な問題に対処してきた。そんな理屈を耳にしたことはあったが、実際に体感してみるとその偉大さはひとしおだった。地図に部屋をひとつ描き込むごとに、私は闇を恐れなくなっていった。
▲ iPadの描画アプリで、階ごとにレイヤーを分けつつ構造を記録した。利便性のために始めたことだったが、描けば描くほど図として美しくなり、テンションが上った。
私は最新のゲームをプレイしながら、遠い昔の、夜の闇が今よりもずっと濃かった時代を思った。牙も持たず、貧弱な四肢に気休め程度の武器を持った祖先たち。獣ばかりか、同族の隣人までもを恐れ、そして頭でっかちなばかりに、想像力によって自らの恐怖を肥大させるばかりだった、哀れな、不安に支配された祖先たちを思った。彼ら彼女らもある段階で、私と同じようにこの世界を捉え、恐怖を手懐けるやり方に気付いたのだ。ある木を目印にして、太陽の登る方向に歩けば、豊かな漁り場にたどり着けること。旅人によれば、あの滝を登った更に上流には大きな街があること。空には動かない星があること。それらを仲間たちに図を描いて説明した時、ごく僅かな大きさの平面に世界の縮図が表れた時、私達の祖先もきっと恐怖を忘れただろう。そこに現れる世界は小さく、単純化され、現実を不必要なまでに恐れることの愚かさをそっと諭してくれるからだ。真っ暗な森が、海が、砂漠が私達を恐れさせたから、私達は道を作り、星を読み、地図を記したのだ。
地図そのものの効用も私を驚かせたが、地図を作る過程も大いに私を勇気づけた。新たな扉を開けるときは相変わらず戦々恐々としていたが(そもそも私は戦々恐々としたいからホラーゲームを買ったので何ら文句は無い)、それでもただ怯えて探索するのと、位置関係を調査・記録しながら探索するのとでは全く違う体験だった。扉を開けた先に敵がいて、ボコボコの滅多打ちに殺されても、その部屋の構造がわかれば確かな収穫をひとつ得たのだと思えた。ワッハッハ、ちょいと死ぬくらいどうってことはない。情報によって恐怖を退けられると身を以って学んだため、廊下を進み扉を開く私の好奇心は更に強固になった。好奇心は私の背中をそっと押すにとどまらず、目の前の世界に構えられた剣の役割も果たすようになったのだ。生身の人間なら好奇心がたたって死ねばもうそれっきりだが、こちとらちょっとロードを挟めば華麗に復活。鬼に金棒的な強さではなく、キ○ガイに刃物的な強さではあるが、ホラーゲーム攻略の真髄が「敵をヘッドショットする」とか「アイテム管理をしっかりする」などという些末なことではないと悟った私は、明らかにプレイヤーとして一皮剥けていた。恐怖に抗うための情報を集める行為そのものが恐怖を薄らがせている現象が美しく感じられた。人の営みの偉大さが私を前向きにした。狼煙を上げる石器時代の狩人たち、星明かりを頼りにシルクロードを歩む隊商たち、海が世界の縁から流れ落ちるさまを確かめようとする船乗りたち、暗い森の中で泣きじゃくりながらも家へと帰る手がかりを探す子供たち……狭いワンルームでゲームをしながらそんな人々に思いを馳せている自分がおかしくて、とても豊かに思えて嬉しかった。恐れを振り払おうと希求し、好奇心に魅せられた過去の人々と一緒に過ごすことは、『おばけなんてないさ』を大声で歌うよりずっと効いた。
恐怖を退けられることが嬉しかったし、奇妙なことに、恐怖が完全には失われないことはもっと嬉しかった。私は依然として物音にビクつき、闇を恐れた。忌まわしくも慣れ親しんだ家を1時間も彷徨えば、緊張でくたくたになった。それは目の前の世界が未だに謎を秘していて、私を驚かせ、私に読み解かれるのを待っていることの証左だった。
私の場合、ホラーゲームにおいて一番苦しいのは、強い敵が出る時でも暗闇に視界を奪われる時でもない。どこへ行ったらいいかわからない時だ。それは現実でも同じかもしれない。迷子が一番つらい。開けるべきドアがどんなに不穏なものであれ、それが見つかり、開けるという選択肢が与えられるのは、行き先が分からず状況が膠着するよりずっと良い。だから私は地図を描き、いまだに謎を秘している場所を探すのだ。
(終わり)