行方不明な主体
仕事をしていると、その主体はどこにあるのか曖昧なまま進んでいくことがある。仕事の仕方は人それぞれだが、「主体」をぼんやりさせたまま物事を進めようとするきらいが散見されて、精神的にすっきりしないことがある。
①
例えば、仕事1という課題があったとして、仕事1を解決しなければならない立場の人物はAという人、またはその人が所属する組織にある。
Aさんは、仕事1を解決するために、Bさん、Cさんにタスクをお願いする。Bさん、Cさんは何をやれば良いか分かったとして、仕事1の解決のために働
く。
②
Bさんはいくつか確認したい点が生まれ、Aさんに確認するが、Cさんと相談して欲しいと言われる。BさんとCさんが相談するも解決せず、Aさんに状況を説明すると、他部署と調整する必要があるという。
Bさんは他部署と調整した結果を伝えたところ、Aさんは別の方向性を探れないか、という。Bさんのタスクが進まない。
③
Cさんが良かれと思って、別の案を複数持ち込んでBさんをカバーする。検討には時間がかかり、合間を見て各案の検討を進めていく。
④
Aさんは各案について業務上の指摘を行う。そこでAさんは、ここまでの情報を整理し、自らその仕事1の解決案を構築する。
このように仕事1の主体がいったりきたりする。プロジェクト管理が曖昧だとこのようにタスクの担当者が変動していく。
①Aさん
②Bさん、Cさん
③Cさん
④Aさん
というように、主体が移り変わっていく。
②〜③の間は、Aさんは主体的に仕事をする立場にない。厳密にはこの仕事1はAさんが発端となっているため、その間も実際には主体である。
主体であるが、主体でない状態がある。
Bさんが主体だよね?というような暗黙や、
そもそもAさんが主体だよね?という暗黙が往来した結果、
決めるに決めきれないといった状況はよくよく発生する。特に日本人の特徴としてこれが著しい。
Aさんともっとコミュニケーションを取れば良いのでは?とも思うが、Aさんが日常的に忙殺されていると良いコミュニケーションが取れない。
Bさんからのボトムアップの報連相が少ないのでは?とも思うが、曖昧な一定のクリアな命題が与えられている以上、仕事をドライブすることはできるという状況下では、忙殺されている立場に対して与える情報の最適量を見極めることもそれなりにタスクとして重かろうと思う。
暗黙が暗黙を呼び、暗黙が故に惑わされる。そもそも仕事に暗黙は必要なく、トップダウンからもボトムアップからも情報はクリアに伝えなければならない。
感情を殺し、ファクトにのみ意識を向ける。日々刻々と変化する人間の精神状態に左右されるような仕事の仕方を切り離すことが良い仕事の仕方であるとも言える。
ただ少し寂しいと思うのは、私が日本人だからなのだろうか。