人間ドラマ『007 No Time To Die 』は、マドレーヌの映画である
『No Time To Die』でレア・セドゥ演じるマドレーヌ・スワンは、ボンドを深く愛するがゆえに彼が抱える「生身の人間としての弱さ」に運命を大きく変えられていく一人の女性として、いわゆる「ボンド・ガール」とは一線を画す生々しい人間として私たちの前に立ち現れます。『No Time To Die』を単なるアクション映画でなく人間ドラマとして観たとき――実際にそれは優れた人間ドラマなのですが――、それはボンドの映画である以上に、マドレーヌの映画なのです。
ここでは、『No Time To Die』の人間ドラマとしての魅力をマドレーヌに光を当てて紐解いていきます。『No Time To Die』をまだご覧になっていない方のために、ネタバレなしでエッセイとして自立する所まで書きます。どうしてもネタバレになってしまう部分は、有料としました。
ダニエル・クレイグがジェームズ・ボンドを演じた5作品は人間ドラマとして、007シリーズ全25作品の中で比類ない深さに達しています。それは、この5作を産み出した人たちが、スーパーヒーロー、ジェームズ・ボンドの唯一といってもよい「生身の人間としての弱さ」に焦点を当て、それを一貫して作品の軸に据え続けたからです。そして、この、ボンドの弱さと正面から向き合うことになったのが、マドレーヌだったのです。
1.ちょっと視野を広げて
本題に入る前に、ちょっと視野を広げて触れておきたいことがあります。2016年以降に、娯楽映画界をけん引してきたシリーズが次々と終幕を迎えまました。これらの最終作との比較で『NoToime To Die』を評価しておきたいのです。
次表の7つが、2016年以降に終幕を迎えたシリーズです。これ以外にも強力なシリーズとしてエイリアンシリーズがあり、2017年にシリーズ最終作『エイリアン:コヴェナント』が公開されていますが、この作品は第1作の前日譚なので、ここでは除外しています。また、ジェイソン・ボーン・シリーズは終わったのか終わっていないのかわからない印象なので、やはり除外しました。
『ブレード・ランナー2049』の扱いには少し悩みました。『2049』は続編というより、独立したオマージュ作品の色合いが濃いからです。ただ、『ブレード・ランナー』が投げかけた問いに一つの答えを与えていること、および『ブレード・ランナー』を観ていないと十分には味わえないことから、シリーズ作品に加えました。
みなさんは、各シリーズの最終作について、どのようにお感じになりましたか? 私が受けた印象は、次のようなものです。
スター・ウォーズ・シリーズは、個々の作品を観ている間は面白くて夢中になるのですが、全体を通したシリーズとしてのイメージが、私の中で漠然としています。その理由は、自分でもよくわかっていません。
こうして較べると、『No Time To Die』は、シリーズの最終走者として、他シリーズの最終走者と比べて、まったく引けをとりません。人間ドラマとしては、『ブレード・ランナー2049』の哲学的な深さには及ばないものの、『2049』と並んで、他の作品から頭二つくらい抜けているというのが、私の印象です。
2.ボンドの「生身の人間としての弱さ」
ここで本題に戻って、ボンドの「生身の人間としての弱さ」を見ていきます。ここで私がわざわざ《生身の人間》と言い、しかも、それを「 」でくくったのは、ジェームズ・ボンドの初期設定は、生身の人間ではなく男性という種族の原始的で剥き出しの願望を象徴する「アイコン」だからです。
《頭が切れ身体強健、つねにリッチで、女にモテてまくる男》――それが、『ドクター・ノオ』(1963)、『ロシアより愛を込めて』(1964)、『ゴールドフィンガー』(1965)、『サンダーボール作戦』(1965)の4作を通して確立されたボンド像です。
どうです? このエッセイを読んでいらっしゃる男性のみなさん、心のどこかには、そういう願望を秘めていたりしませんか? 私には、あります。しかし、現実には、どうあがいてもそんな風になりっこないから、007映画のファンになったのだと思っています。
初期設定としてのボンドは生身の人間ではないのだから、当然、生身の人間の弱さとは無縁の存在だったのです。
ところが、そんなボンドが、『女王陛下の007』(1969)で、初めて《生身の人間としての弱さ》を見せます。それは《届かぬ愛に胸引き裂かれる》ことです。これが映画製作者たちが意識して採り入れた要素なのか、イアン・フレミングの原作がそうなっていたからその通り作っただけなのかは、私にはわかりません。
『女王陛下の007』は古い映画で、既に色々なところで語られているので言ってもネタバレにならないと思いますが、この作品で、ボンドは、初めて妻をめとります。
それまで行き会う女性と束の間の情事を楽しめば満足だったボンドが、テレサという女性に対して、初めて《末永く共に生きるという形で届けたい愛》を抱いたのです。
ところが、テレサはボンドの宿敵である国際犯罪組織スペクターが放った凶弾で命を落としてしまいます。彼女が失われたことで、ボンドの彼女への愛は《届かぬ愛》となり、彼は胸を引き裂かれるのです。
上の動画は著作権の所在が不明です。もし著作権侵害があったら、ご指摘ください。直ちに削除します。
もっとも、このときボンドが受けた胸の痛みが後の作品で繰り返し強調されたわけではなく、『ユア・アイズ・オンリー』(1981)の冒頭でボンドがテレサのお墓参りをしているので、「あぁ、忘れてなかったのね」と思わせる程度でした。
上の動画も著作権の所在が不明です。もし著作権侵害があったら、ご指摘ください。直ちに削除します。
ダニエル・クレイグ版は、ボンドが00ナンバーを取得するところからスタートするので、それ以前の作品から時系列的に切り離されています。ですから、彼の世界にはテレサは存在しません。クレイグ版ボンドが《届かぬ愛に胸引き裂かれる》相手は、『カジノ・ロワイヤル』(2006)でのパートナー、ヴェスパー・リンドです。
ヴェスパーの話を始めるとネタバレ・ゾーンに入ってしまうので、別の《届かぬ愛》に話を移します。それは、MI6での女性上司Mへの想いです。
『スカイフォール』(2012)で、Mはボンドを死の危険に追いやる決断をします。彼女の職責上、止むを得ない判断なのですが、命を落としかけたボンドはMに見捨てられたと思います。彼のMへの愛着と忠誠は《届かぬ愛》となり、深く傷ついた彼は、生きていることをMに報告せずバハマかどこかに身を潜めて酒に溺れるのです。
ところが、Mが命を狙われたと知るや、ボンドは彼女を守るため、ロンドンに舞い戻ります。もっとも、ボンド自身はMI 6の仲間を守るために復帰したと言っていたと思います(記憶がやや曖昧)。
Mを狙っているのは、ボンドと同じくMの職責上の判断で危地に追いやられた元MI6エージェントのラウル・シルヴァ(名優ハビエル・バルデムが怪演)です。彼もまたMに切り捨てられたと感じたのですが、彼は傷ついただけでなく激しく怒り、Mへの復讐を企てるのです。
ボンドとシルヴァの闘いは、マザコン息子2人が、どちらが母からより愛されているかを競うみたいな様相を呈してきます。
誤解のないように言いますが、私は『スカイフォール』が大好きで、劇場とネット配信を含めて3回以上観ています。今までに観た映画のベスト20のひとつです。であっても、ここでのボンドにはとシルヴァには、やや呆れずにいられません。
『スカイフォール』では、ボンドの《叶わぬ愛》が、もう一つ描かれています。それは、親への愛です。ボンドは幼くして両親を失い、それに続いて、養父母も失っているのです。
ともかく、クレイグ版ボンドは、《届かぬ愛』にとことん、弱いのです。冒頭でも述べましたが、彼のこの弱さによって運命を大きく変えられていくのが、マドレーヌ・スワンなのです。
3.マドレーヌについて語りたいこと
ここからが、いよいよ本題です。この先はネタバレだらけなので、有料記事としますが、私がマドレーヌについて語りたいことの目次だけは、ここに示しておきます。
3-1. 愛する人の未練に、どう向き合ったか
愛する人の胸に元カノ(元カレ)が生き続けているとき、それにどう向き合うか。
3-2. 自らの宿命に、どう向き合ったか
自ら望んだわけではないのに、人生を決定づけかねない条件として課されたものに、どう向き合うか。
3-3. どのうように、「闘う女」であったか
ジェームズ・キャメロンが『エイリアン2』(1986)と『ターミネーター2』(1991)で確立した「闘う女」の系譜を、マドレーヌがどのように継いでいるか。
有料部分もお楽しみいただけると幸いです。
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