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任天堂を作った男の話②

みなさんこんにちは❗️任天堂のヒストリーの続きをどうぞ❗️

【伝説のゲームを作り出した横井軍事】

新幹線に乗っていた横井さん

サラリーマンが電卓を叩いているのを見て、小型のゲーム機が売れるかもしれない!と閃いたことから、ゲーム&ウォッチを開発します。

横井さんのすごいところはハードだけでなくソフトも作るところ。
例えるならば、
パソコンも作れる上にアプリの開発もできる!みたいに二刀流の才能を持っていました。

【宮本茂との出会い】

ゲーム&ウォッチでポパイのゲームを作ろうとした横井さんにさらなる出会いが訪れます。
以下は横井さんの著書からの引用です


当時パッケージデザインをやっていた宮本というのがおったんですね。その宮本を引っ張り込んで、「ゲーム&ウォッチでポパイのゲームを作ろう」ということで、いっしょに構想を練っていたんですね。 で、わりとすぐに「下にポパイ、上にブルートを配置して」というゲームの骨格ができあがったんですけど、後でポパイの版権がとれないとわかった。しかたなく、ゲーム内容はそのままでキャラクターだけ変えようということになったんですね。で、変えたのがマリオとドンキーコングとピーチ姫だといういきさつなんです。


当時の宮本さんは新卒だったそうです。
そんな宮本さんを横井さんが支えながら誕生したドンキーコングは大ヒット。

その後テレビゲーム業界に参入することを決意。
他社より後発のため売れないのではと言われていたそうです。
山内さんはまだ市場調査をしていないゲーム機を、予算の大半を注ぎ大量製造を決意しました。
大量発注しコストダウンをしたゲーム機が「ファミコン」です。
当時ゲーム機が3万円だった中、1.5万円という破格の値段での販売でした。

市場調査をしない理由を山内さんはこう語ります

「市場は任天堂が作る。
売れるかどうかはわからないが
面白いかどうかはわかる。」

勝負師ですね。市場を作れることを確信している、痺れます。

【岩田聡との出会い】

ファミコンを出したのち、任天堂を大躍進させる出会いがありました。
ゲームプログラマーの岩田さんです。
当時、岩田さんはハル研究所というゲームプログラミングの会社に所属していました。
ファミコンの破格の値段に驚愕した岩田さんは、

「このゲームのソフトを作りたい!」

との一心で任天堂に頼み込み、その熱意を買われてソフト開発をハル研究所で請け負うことになります。
そして見事に、岩田さんの開発したソフトは縦続きにヒット。
ファミコン初期を支えました。

しかし、時代はバブル崩壊。
その煽りを受けて岩田さんの会社は資金繰りが悪化、事実上の倒産にまで追い込まれました。

せっかく任天堂のソフトを請け負い、好調だったのにもう終わりなのか。

この時、絶体絶命の危機を救ったのは任天堂社長の山内さんでした。
ハル研究所に開発資金を提供する条件として、経営再建に当たる社長を岩田さんにすることを求めたそうです。

なんとしてでも恩返ししたい!!

ハル研究所の社長となった岩田さんは研究に研究を重ね
2つのゲームソフトを誕生させ、大ヒットを生み出します。

「星のカービイ」
「大乱闘スマッシュブラザーズ」

この2つのソフトの開発もあり、岩田さんは15億もあった負債をたった6年で返済したということです。

経営の腕を認めた山内さんは岩田さんを任天堂に誘い入れ
その2年後の2002年、岩田さんを任天堂の4代目社長として任命しました。

そして岩田さんが社長になってからDS・Wiiが爆発的に売れ、現在はSwitchの売上を伸ばしておりゲーム会社として任天堂は間違いなくTOPに君臨しています。

こんなにも人との出会いの中で発展してきた企業があるでしょうか。

現在任天堂は6代目の古川俊太郎さんが社長を務めております。
任天堂はこれからも我々の子供心をくすぐってくれることでしょう。

任天堂の由来は

「運を天に任せる」

やることを全力でやり遂げた上で運を天に任せる。

やることをやった人には運が巡ってくるものかもしれないですね。

以上です。読んでいただきありがとうございました❗️

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