髪型と自意識と自己認識と
先日、いつもの美容室に出かけ、いつもの美容師さんに、いつも通り髪を切ってもらった。
この美容師さんとの付き合いは長くて、カット台に座って交わす髪型に関する会話は、前回からどの程度時間が経っているか(切る量の決定)といつも通りで良いか(何か気分的な変化があるか)の確認作業のみだ。
要するに僕は彼を信頼し、彼も(過去の会話ややり取りから)僕の事をよく理解してくれているのだ。
僕は髪型に関してはあまり執着のある方ではない。かつては肩までつくようなロングの髪を縮毛矯正し毎朝ドライヤーで丁寧に引っ張るようなこともしていたり、金髪にしていたりしていた時期もあったのだけれども、結婚して子供ができて以降はさっと洗えて寝癖がすぐに取り除ければそれでいいという感じでベリーショートで通している。
スタイリング剤をつけることも滅多になく、タオルドライしてアホ毛がないかの確認程度でスタイリングが終わる。
とはいえ、自分に似合う髪型がどんなものなのか全く興味がない訳ではなく、その証拠として、「信頼できる」美容師さんと長い付き合いをする事が多い。ここで言う「信頼」とは、僕の考えている自分に似合う髪型と美容師さんの提案する髪型とに大きな乖離がない、という意味だ。つまりは僕の自己認識と彼の僕に対する認識に大きくズレがないことだけが重要なのだ。
カット、洗髪を終え髪を乾かしてもらっていると、彼はいつも通り「スタイリング剤はどうする?」と聞いてきた。今日はもう帰って飯食って寝るだけどからなしでいいよ、と答えると「おろしさんはつけない事が多いよね」という言葉の後にちょっと面白い話をしてくれた。
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彼は美容師であると同時に美容室のオーナーでもある。そんな立場なのでSNSで定期的にエゴサーチして自分の店の評判等をチェックしているのだけど、その中で彼にとってショックな書き込みを見つけてしまったというのだ。
美容室でスタイリングしてもらって「キマッた」ことがない
その書き込みには(特定の美容室に対する不満としてではなく)、「美容室ではキマらない」ということに対する共感の書き込みが多く見られたという。
優れた美容師というのは、確実なカット&パーマの技術やその人に合わせた髪型やカラーの提案力、顧客と対話し相手を理解するコミュニケーション能力、そしてトレンドへ感度といった専門性を高次元で備えた人を言うのだと思う。
僕は彼を優れた美容師と認識している訳だが、そんな彼が大きく落胆し自信を失っていたのだ。優れた美容師が提案する仕上げとしてのスタイリングに対しある程度の数の人達が「キマッて」いないと感じていることにショックを受けているわけだ。
恐らく彼は何か答えのようなものを期待して話した訳ではないのだろうけど、僕は僕なりにこの事についての考えを開示してみることにした。
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この問題にはきっと確実な解決方法はないのだと思う。理由はお客さんの自意識と自己認識の問題だからだ。
自意識とは(この場合美意識といってもいいが)、髪型等へのこだわりの事を指している。髪型がキマらないことをSNSに投稿するぐらいだから、普段からかなり意識しているのだろう。
そんな彼らが顧客として美容師に仕事を依頼しているのだから、カットやパーマ等の基本的な技術要求、つまりはこだわりには応えられているのだと思うし、そこには信頼もあるのだろう。そうでないなら、自分の要求に応えてくれる技量がなかった、と投稿していたはずだ。つまり、技術的な問題ではなくもっと細かいニュアンスのような部分の問題ということになる。
自己認識については根本的に顧客と美容師では認識レベルに差があると考えている。自己像に対して強いこだわりのある人ではあるのだけれど、彼ら自身の抱く自己像は原理的に完全なものにはなりえないと考える。本人が自己を視覚的に認識する手段は基本的には二次元的だからだ。鏡やスマホのインカメラを介してしか自分の姿かたちを視覚的に捉えることは出来ない。だからこそ、彼らには自分自身が最もよく見えると信じる角度(つまりはキメ顔)を持っているのだ。
対して、美容師からの彼らに対する認識は三次元的になる。眼を使って直接的に観察するのはもちろんのこと、鏡に映る顧客の表情等の情報、さらには会話によって引き出された客観的な印象等、総合的に顧客の人間像を認識する事が可能だ。
「美容室ではキマらない」という現象は、彼らの自己認識と美容師の顧客に対する認識の微妙なズレから生じているものなのだ。優れた美容師が仕上げとして行うスタイリングは客観的に見た場合に限り、三次元的に最もバランスの取れたその顧客に似合うスタイルに仕上がっているはずなのだが、それを「キマっていない」と認識してしまうのは顧客側の自己認識、つまりはキメ顔がキマらないと感じてしまうという事に他ならない。彼らが求めているのはある特定の角度から見た自己像の完成度を高めることなのだ。僕は彼らが「キマッていない」と切り捨ててしまい何がその要因なのか踏み込まない事がすごくもったいなく感じてしまう。自己像は不完全なものであるはずで、美容師のスタイリングは自己像を見直す為の大きなチャンスであるはずだからだ。
僕から提案できる暫定的な解決策は以下の二つになる。
一つは、プロフェッショナルとして自分の仕事に自信を持ち、今まで通り三次元的、総合的に最も良いと考えたスタイリングを貫くことだ。要するにSNSへの書き込みは気にしないことだ。この行為は顧客の自己像を拡張する大事な仕事であり、大切にして欲しい事だ。
もう一つは、一旦同じように最も良いと考えた形にした後、顧客が鏡像を確認する際の顔の角度(すなわちキメ顔)を確認した上で、その角度から最もよく見えるであろうスタイルに再度仕上げ直し、全体としてはそこを中心にバランスをとるという手段だ。キメ顔をするかしないか分からないと思うかもしれないが、キメ顔をしない人はこのような投稿をしないから前者の対応で問題ないし、この手の書き込みをする強いこだわりを持った顧客は必ずキメ顔をすると断言できる。顧客の要求には応えつつ、自分のプロとしての仕事としては半歩顧客側に譲る形をとるという事だ。
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ここまで一気に話したところ、彼はちょっとキョトンとしたあと深く頷き笑顔になった。
「やっぱりおろしさんに話して良かった」と彼に言われ、僕はちょっと照れながら、僕と彼との信頼関係はまたちょっと深まったのかな、と思うのだった。
せっかく信頼が深まったのだ。次回はしっかりスタイリングまでしてもらおうと思う。僕も少しは自意識を高めた方がいいだろうし、不完全な自己認識を信頼できる第三者からの提案で拡張できるチャンスなのだから。