はじめに:書くという行為を見直したい
1998年春。ちょうど22年前の僕は、故郷である栃木県を離れ、大学進学のため東京八王子での一人暮らしをはじめた。受験は平たく言えば失敗で、人生はじめての大きな挫折感に溺れていた僕にとって、入学式は翌年に実現される予定のノストラダムスの予言以上に陰鬱なものだった。とは言え、田舎特有のいわゆるムラ社会から脱し、誰が誰だか判別不可能な人数の、どんな距離感かもわからない親戚筋との、これまたどんな距離で接していいのかわからない付き合いからも一定の物理的な距離を確保でき、誰からも干渉されない一人暮らしという場を手にした喜びがあったこともまた間違いのないことだった。
当時、高校を卒業と同時に多くの若者が新たに手に入れた2つのツールがある。携帯電話とインターネットだ。僕も、親から与えられたPHSとインターネットによって、入学時の悲喜交々を徐々に忘れ、新しい自分の新しい生活を謳歌していった。そして、今や二つは(便宜的には)一つの物としてスマホとして存在し、それを手にした者は誰しも平等に世界と常時接続する手段を手にできる。当時そんなことは誰も想像していなかったと思う。
両親が(取り上げて)貯金していた18歳までのお年玉の蓄積である30万円を右手に、大学のパソコンルームで調べ上げた必要なパーツリストを左手に、誰かに襲われやしないものかと周囲の人全てを犯罪者認定した目つきの僕は一人秋葉原へ向かった。覚えたてのインターネットと雑誌の情報から、Pentium3デュアルCPUで初めての自作PCを組み上げた僕は、毎晩23時を待ちダイアルアップ接続の音がダイヤルQ2につながっていないことを確認しながら朝5時までのリミット付きで無限に広がるWWWの世界へ没入した。
当時のこの世界は、誰でも誰とでも繋がれるようで、実態としてはそうではなかったように思う。リテラシーのない者はウィルスに感染し、油断すればブラクラを食らいハングアップし、エロ画像かと思ったらグロ画像だったりした。そんな時代に流行ったのがいわゆるテキスト系サイトだった。ブログという言葉すらない時代で、当然HTMLの手打ちでFFFTP経由でサーバにアップロードし、CGIのBBSで交流した(キリ番は報告忘れるなよ)。面白い記事を書ければアクセスやコメントが増え、結果として面白い人間同士が深くつながれる世界だった。僕も自身のテキストサイトを運営し、小学校の保健室の先生やイメクラ嬢等といった、ここでしか交わらない層の人々とICQやメールで交流をしたものだった。(小鹿さん元気ですか?)アクセス数といっても今のようにマネタイズにつながることなどなかったので、純粋に若者間での、ある意味高度な交流と遊びの場であったと思う。時には自分の物語を書き、時には他人の物語に没入し、その往復関係から自分自身の内省へとつながる、ある意味閉じて、ある意味開いた、ちょっと危険でその分魅力的な自分と社会との距離感を(疑似的に)測れる装置として、僕たちはインターネットと良好な関係を築いていたのだと思う。(余談だが、妻との出会いは、ある個人の運営するチープだがハイセンスなサイトの交流BBSであったりする。)
こういった、(交流のための)書くスキルやネットリテラシーのない者には立ち入れない「僕たちだけの」楽園的なネット社会は割と早く壊れていって、2ch~ニコニコの隆盛の間に消滅していった社会なのかなと思う。(この辺りは一度ちゃんと調べて時系列を整理したいと思っている。あくまで自分のためだけど。)並行してブログからmixi、震災以降のtwitter、FB、インスタという流れかな。
僕たちは一度はテキストサイト文化の中で、日常の自分の物語を生きることができていたのだと思う。それがSNSの隆盛によりいつの間にか(テレビで垂れ流されるような)他人の物語にコミットすることに慣れ、誰かの指示に流されてターゲットに石を投げたり、大きな主語のもっともらしい主張に同調することで自分を安心させてしまう、矮小で存在価値のない者に成り下がってしまったのではないだろうか。社会から一歩引いた視点に立ち、本質に目を向け、真に必要な議論ができる人が極端に減ってしまったように思う。要するに僕達はバカになってしまった。
昨年末、僕は本当にSNS(特にtwitter)疲れしていた。今のSNSプラットフォームは良くも悪くも、早く、広く、繋がりすぎる。誰もが自分が信じたい情報だけに気を配り、真偽も検証しないまま脊髄反射でRTする。日本の識字率なんて嘘っぱちだとしか思えない悲惨な状況で、仲の良かった人達ですら徐々に徐々に(本人は認めはしないだろうが)ネトウヨ化していく実態に耐え切れなくなっていた。(僕自身もそういう傾向があったことも間違いないし、それも嫌だった。)だからこの1月から、twitterアカウントを本名で取り直し、自分が流す情報には一定の責任を持つことにした。その際に上記のように極端にイデオロギーに飲まれた人や、ただただお気に入りの画像をRTするだけの受け取る価値のないモノしか流さない人は思い切ってフォローをやめた。
インターネットが好きだ、と僕ら世代が言うと、今の(ネットネイティブな)若い人には、なんですかそれ?と言われてしまうと誰かが言っていた。でも僕は、インターネットが好きだともう一度言いたい。今でも毎日、新たな出会いをくれ、新たな知識を、新たな思考の角度を与えてくれる。これは間違いない。だからもう一度、自分自身のネットとの向き合い方を見直したい。具体的には書くことの価値を見直したい。(受け売りだけどね。)あのころのインターネットを取り戻せるとは思わない。懐古主義に意味はない。基本には立ち返りたい。具体的には読むことから書くことへという手順を取り戻したい。いや、読むと書くを並走することが良いのかもしれない。僕たちは140文字に慣れすぎてしまった。だからも一度文字数制限のない、縛りのない場で自分と自分の文章と向き合いたい。だからこのnoteを始めることにした。自分にしか書けない、自分だけの価値を届けたい。いつかきちんと価値ある発信ができる自分になるために書き続けたい。それがいつか誰かの助けになればこれ以上の喜びはないのだと思う。書くという行為は、人に伝えるという機能の逆側に、自分に問い直すという機能が存在していたはずだ。その失われつつある機能を取り戻すために、もう一度、日常の中の自分の物語を取り戻すために、書くという行為そのものを見直したい。
*折角1月にブログを立ち上げ、少数とはいえしっかり読んでくれる人もいたわけですが、ブログには「学び」という縛りをつけてしまったということと、レイアウトやら写真やら書くこと以外の作業が多く、今本当に書きたいことが書けないというジレンマに陥っています。そのため、もう少し定期的に、でも焦らずマイペースに、思考を整理するために、本当に書きたいことを書くために、noteを主軸の場へと移行しようと思います。妻の頑張りや自信の学びについても、ブログ記事を刷新したり、新たに記事を投稿するなどして継続して報告していこうと思います。