僕達の日常を失わないために
非日常的なもの。旅行や観光、イベントやフェス、週末のショッピングセンターをぶらぶらすること、行列のできるレストランで友達と一緒に並んで映える食事をすること、話題の最新作映画をいち早く鑑賞しその感想をシェアすること等々。それらが一時的(であって欲しい)に奪われているこのご時世。「非日常の自分の物語」が奪われることによりストレスが溜まっている人が多いかと思う。
日常を守るための回路として、週末などの可処分時間を、非日常な時空へ離脱するということしか持ちえずにいた人々、人と繋がることでしか自分を見出せない人々。彼らにとって、それはそれはしんどい日々なのだろう。
ちなみに、人々に非日常の体験を提供することにより食い扶持を稼いでいる僕等の業界は、まさに仕事という日常を奪われかねない非常に困った状況にあることは言うまでもない。
とはいうものの、個人的には割とこの状況を(不謹慎な意味ではなく)楽しんでいる。家にいろと言われればいつまででも問題ない。3密を避けた可処分時間の過ごし方に関しては、我々オタクには一日の長があるといえるだろう。
読書だけでもいいし、映画は劇場で観るこだわりはないし、アニメ、ドラマ、過去のレース等、Netflix、youtubeで視聴したりできるし、いい音楽だけあれば酒はおいしく飲める。ネット環境さえあれば、一日中家で過ごすことに何の苦もない(そもそも要請されなくても家で過ごすことに慣れている)。鍛え上げられたお一人様力に隙はなく、家族4人共同じ家にいながら各自が自由に別々の時間を過ごしている。
加えて、そんなオタ趣味にとどまらず、自分の趣味全体が、非日常を日常に引き寄せるような、生活に密着しないまでも隣り合わせで寄り添うようなものとして設計してきているというのも、僕がしっかり日常を守れている強さのようなものになっていると思っている。
実は昨年度、娘が高校受験だったこともあり、オタ趣味以外の外に出る趣味の活動を大幅に自粛していた。友人との飲み会、カラオケ、ツーリングやキャンプ等、年数回だけにとどめ、基本自宅に引きこもり、娘の塾の送り迎えや、家庭内学習の環境整備などに対応できるようにしてきた。今の外出自粛社会を先取りして実践してきたようなものだ。
というわけで、自由に外出して好きなように街を闊歩できるような状況でない今、自分自身の日常を守るために、普段から非日常とどのように向き合うのが良いのか?そんな話をしていきたいと思う。
まずはコロナという非日常を遮断する
本来、日常的メディアの代名詞であるはずのテレビやSNSが、新型コロナウィルスの拡散以降、完全に非日常化してしまったと思う。まずはこの情報に日常を侵食されないように(ひいては、過剰な不安や不満に侵されないために)適度に距離を置き、適度に遮断することを提案したい。
具体的にはまず、テレビの電源を切ることだ。そもそもがテレビというメディア自体、団塊Jr以上のシニア向けメディアであり、彼らの欲しがる情報に最適化していった結果、不安と不満を煽るためだけに存在するような装置に成り下がっているので、そもそも観る価値が、ない。今日の感染者は何人でしたと無価値な数字を並べることや、人の不幸と揚げ足取りのワイドショーなんてもってのほかだ。さらにドラマやバラエティ、アニメに至るまで、外出自粛、3密防止で制作自体が出来なくなりつつある。こんな無価値なメディアに時間を奪われるのは非常に勿体ない。
そしてSNSだが、残念なことに有益な情報に比して、コミュニケーションのためのコミュニケーションが蔓延し、真偽不明な情報が脊髄反射で拡散され氾濫するだけの、やはり無価値な存在で、さらにテレビというメディアがリーチしない層へ、その情報が届いてしまうことで、悪い意味でテレビを補完してしまう存在に成り下がっている。SNSから情報を収集しようなどと考えるのは無駄と言わざるを得ない。
こういったモノに振り回された結果、他人の行動にばかり気を取られ、例えば、自分は自粛要請に応じて店を閉めているに、同業のお前は店を閉めないのか!と攻撃的な行動を開始してしまうことは不幸だ(数カ月もすれば、今自粛している店舗も営業を再開しなければ資金はショートするはずで、廃業するか、規模を縮小し適切に対策したうえで営業再開するかの2択を迫られ、その時に過去に他人を攻めていた自分に言い訳が出来なくなり結果として自滅してしまうことになりかねない。)
さて、この二つを遮断したとき、多くの人はどこから情報を得ればいいのかわからなくなるのではないだろうか?そこで、インターネット本来の使い方を思い出したい。一言で言うならググレカスだ。
インターネット上には正しい情報も当然転がっている。きっちり調べ、その情報のファクトをチェックする。本来はマスメディアがやったうえで情報発信するべきなのは間違いないが、そんなものは(少なくともこの国のメディアには)期待できない。自身で情報を集めそれを精査する癖をつけるべきだ。そして、コロナ関連情報に関しては、毎日追いかける必要はない。必要性を感じた時に、必要な情報を集めればいい。一日二日で状況、情勢は変わらない。いつまで続くかわからない状況であるからこそ、じっくり確実に情報をつかみ、自分自身がどのように振る舞うかを考える必要があるのではないだろうか。
日常と非日常の境界を限りなく曖昧にしたい
ようやく本題に入る。見直すべきはライフスタイル、すなわちは生活だ。仕事以外の時間の過ごし方を見直すことで、この息苦しさを自分の中から変えていくことは可能だと思う。週末や帰宅後の余暇の楽しみ、すなわち趣味の充実こそが、この時代(withコロナ、afterコロナ時代)を上手に生き抜くために必須のものだと考える。afterコロナといっても去年までと同じ生活が取り戻せることはなく、世の中すべてが3密を意識したものとなり、例えば、同じ規模の施設を使ったイベント等も同じ人数を収容できる状態には戻らないだろう(必然的にチケットは高騰し、過去に「非日常の自分の物語」を体験した人の大多数は経済的理由や争奪戦で戦線離脱することになるだろう)。
つまり予想される未来は、「非日常の自分の物語」(フェスへの参加、映えるレストラン)に飛び込むことにより自分の日常を調整する時代が終わり、「日常の他人の物語」(テレビやNetflix等)に回帰するか、いかにして「日常の自分の物語」を拡張させ、日常そのものを充実させるか、という方向であろう。定期的に非日常にどっぷり浸からなければ自身を保てない生活を変える必要がある。
「日常の他人の物語」への回帰と没入は比較的簡単だ。テレビをモニターとして扱うことに切り替えるために、アンテナ線を外し、ネットにつなぐだけでいい。フェスや外食に比べればサブスクの費用などタダも同然だ。
とはいえ、「非日常の自分の物語」の魅力に憑りつかれた人々が今更そこに回帰するのは、身体的体験という刺激が不足する分、難しいと思う。そんな人達へ提案したいのが、日常の中に留まりながら、非日常を部分的に引き寄せるということだ。それは趣味の再構築に他ならない。
僕の趣味は割と多岐にわたる。その基準というか軸足となっているのはバイクに乗るというものだ。このバイクという趣味からピボットするイメージで趣味の幅を広げている。
現有車 2017年式 YAMAHA SEROW 250
僕のバイク趣味の起源はニコニコ動画にある。ニコニコ動画で車載動画を観たことをきっかけにバイクに乗りたいという(若いころに抱いていた)思いが溢れ、30歳を過ぎてから免許を取得した(中型→大型と連続教習)。免許を取った私は、ニコニコ動画内のニコニコツーリングというコミュニテヒに参加。当時の愛車、HONDA CB400SFで様々なツーリング企画に参加していった。
僕はバイク乗りの集いが好きだ。特にニコニコツーリングに参加するような人は、そのプラットフォームの特性もあり基本的にオタクである傾向が強い。要するにお一人様の集まりなのだ。
自動車で集団で出かけることを想像してほしい。1台の車で出かけるとき、途中でドライバー交代があるにしても基本的に運転するのは一人だ。その一人がハンドルを握る間、同行者の生命に対し全責任を持たざるを得ない。
それがバイクの集まり(マスツーリング)の場合はどうだろう?基本的にタンデムでない限り、バイクに跨り移動する際のすべての責任を必然的に各個人が持つことになる。要するに自立したオトナでなければいけないということだ。極端にマナーの悪い人や運転の荒い人は自然と周囲が離れていく現象が起こる。元々が社会的に疎外感を感じることが多かった(最近はそうでもないが)オタクであるからこそ、コミュニティを外部から守るための正の同調圧力は強く、集団の質や評判を著しく低下させるような行動をとるものは強烈に排除される。こうしてコミュニティ内の品位が維持されやすい環境にある。
さて、このバイクという生活には一切かかわらない(通勤に使う人にとっては日常だろうが)趣味をどのように日常に接続するのが良いのだろうか?
答えは簡単だ。バイクで買い物に、美容室に、ラーメン屋に行けばいい。普段であれば車や電車で出かける日常的な場に、バイクという非日常の回路を使って接続するのだ。それも、ちょっとした贅沢や仲間との遊び等、そういう場ではなく、日常の、ちょっとコンビニまでという移動をバイクに置き換えるのだ。あまり非日常を強めてはいけない。食材や消耗品の買い出しというありふれた日常に、ほんの少しだけ、バイクという非日常を足すのだ。車で出かけても、自転車で出かけても買い物という目的は変わらない。移動手段を変えるというちょっとした非日常こそが、日常を守るものになるはずだ。
バイク趣味からのピボットで拡張される趣味がキャンプだ。当時ニコニコツーリング内で特に大きなイベントだったのがYBC(ゆっくりブートキャンプ)というキャンプイベントだ。毎年、埼玉県のとある河川敷のキャンプ場で開催され、幹事は挙手性で前回幹事の面談的なものを経て決定される、手作りのイベントだが、多いときで700名規模にも達していた。人気の車載動画投稿主に会いに行きたいという理由でキャンプを始めた人が多く、僕もまたその一人だ。
キャンプイベントというと、大きなテントにみんなで寝て、一つのバーベキューコンロを囲い、誰が肉を買い誰が酒を買うのか議論し、日常的な宅飲みを自然の中で行うような、お泊りありのバーベキュー、いわゆるグループキャンプをイメージする人が多いのだと思う(余談だが、なぜかこういう野外飲み会的なグルキャン勢は非常にうるさいことが多い)。
僕達のキャンプはそうではない。バイク乗りがキャンプするために集まるというのは、グループキャンプとは大きく特性が異なるのだ。
セローさん フル積載状態
自分が乗るスペースしか残されていない
キャンプ道具はバイクのどこに積むのかというと、タンデムシートになる。自分とシートバッグを積んだらそれまでで、タンデムなんてできるスペースはない。つまりはソロ仕様になる。僕等のキャンプはグループキャンプではなく、「ソロキャンの集まり」に過ぎないのだ(そしてこれがYBCの基本コンセプトだ)。各自が各々のテントを張り、各々が料理をし、好きな酒を飲む。当然料理はシェアされるが、何を食って何を飲んで、いつ寝ていつ起きるのも自由だ。
これは、お一人様キャンパーとして各自が自立していないと成り立たないものだ。キャンプ場の地面が硬くてペグが刺さらないのも、予想以上に寒くてまともに寝れないようなことがあるのも、すべて自己責任だ(最悪、一酸化炭素中毒や凍死することも起こりうる)。ソロキャンプとは非日常でありながら実は日常の延長線上にあるといえる。基本的にやることは、食って、寝る、だ。食事をして睡眠をとるという行為を、家ではなく外でやる。それは生きるという日常に他ならない。そんな意味で日常に限りなく近いのだ。
ソロキャンプを行うということは自分の飯は自分で作る必要がある。次のピボットの軸足はキャンプで行先は料理だ。我が家はいわゆる昭和スタイルの家庭で、僕は外に出て仕事、妻は基本家にいて家事(時々パート)という形なので普段は妻が食事を用意してくれる。
キャンプ趣味とは恐ろしいもので、日常的には料理をしないくせにキャンプの時だけやたら凝った料理を作るようになったりする。ダッチオーブン料理や燻製なんかがいい例だろう。そして、ぶっつけ本番でキャンプで料理なんてしたくない。食うものがなくなった状態で酒だけ飲んで寝るほどむなしいことはないからだ。必然的に家で試作することになる。試作したらそのまま食卓へ並べればいい。
キャンプでのんびり作るのに燻製は最適だ
だが実は家で冷蔵庫で一晩寝かせた方がうまかったりする
料理なんて実は簡単だ。習うより慣れよだ。別に燻製やダッチオーブンにこだわる必要なんてない。普段料理しないならやってみればいい。料理する人なら普段よりひと手間かけたものをちょっと時間をかけて作ってみる。それでも食は食であり、食である以上日常であるはずだ。
キャンプからの派生はもう一つある。焚火だ。そもそも焚火するためにキャンプをするというのが本音ではあるのだが。
世の中の大部分の灯がLEDライトになり、正直目が痛い。明るいことはいい。特に本を読むときなどは明るい方が目が疲れない(気がする)。しかしたまには暗闇の中、炎が緩やかに照らす灯にさらされたい。読みずらいな、と思いながら頭をもたげ読める位置を探して本を読むのがいいのだ。
炎の揺らめきとは不思議なものだ。柔らかく、温かい。ただ酒を飲むなら焚火以外は何もいらない。最高の肴だ。緩やかに揺らめく。パチパチと音を立てる、一点に定まらないゆらめきを、見つめるのでは無くただ眺めるという感覚で。たった一人、孤独と向き合いながら、焚火と一対一で酒を飲む。不思議だ。その時僕は限りなく無防備だ。社会と向き合うための鎧は煙とともに風に流され、軽くなった肩は熾火の遠赤外線で柔らかくほぐされる。焚火は人の心と体を丸裸にする。
とはいえ、いつでもキャンプに行けるわけではない。だから時には庭で火を焚く。そしてただCO2を排出するのではなく、その熱エネルギーは料理に転用するのだ。
コンソメと好きな具材を入れて放置するだけでポトフが出来上がる
それも無理なら、食卓の蛍光灯を消し、蝋燭やランタンの灯で過ごしてみるのはどうだろう?きっと普段と違った素敵な宅呑み空間が出来上がる。
311後、計画停電が行われる中、我が家の家族は蝋燭の灯で過ごすという非日常感を積極的に楽しんでいた(と妻に聞いている(僕は単身赴任だった))。不謹慎と叫ぶのは簡単だが、不自由を楽しめるというのは生きる上では非常に大切な強さだと僕は思う。
さて、ここまで読んでみてどんな感想を抱いただろうか?ちょっと待てよ、これお前のソロ充自慢でしかないだろ?正解である。
正直ここまで趣味の世界を広げるのは一朝一夕でできることではない。だが、趣味の世界を、距離の遠い非日常に接続しすぎないことで、日常に寄り添う形で非日常が存在し(日常が拡張され)結果として世界から行動を制限されても、その制限される量は相対的に減らすことが可能だということはわかって頂けたのではないだろうか。日常と非日常の境界を曖昧にすることで、気軽に両者を行き来できる、強さと自由を手に入れられるのだ。
日常行動の要素を削ることで非日常感を作り出す
日常から要素を削って非日常を作るとはどういうことか?食卓の、灯という便利なものを、蝋燭という不便なものに置き換える、というのが一つの答えだ。この角度の考え方で、誰でも気軽に、遠すぎない非日常を作り出せる。今すぐ始められるものを一つ提示すると、「歩く」を「散歩」に置き換えるとうのはどうだろう?
普段、歩くということには目的が必ずある。通勤通学であったり、買い物であったり、外食であったりするだろう。目的、または目的地があり、そこに到達するための移動手段が「歩く」であることがほとんどだろう。
だから、その目的または目的地を削ってしまうのだ。つまり無目的に歩く、すなわち散歩するのだ。散歩になった途端、「歩く」はすでに趣味になる。スマホや時計は家に置いていくのがいいだろう。何か持ち歩くなら、読みかけの本やカメラがいい。その本に似合う景色を探し、ちょっと腰かけて読書し、気が済んだらまた歩いて帰る。普段歩かない裏道に入り(夜はやめよう)足元ではなく周囲を観察し、気になったモノをファインダーに入れていく。趣味=散歩というとなんか地味な感じだが、こんな散歩なら、なぜか急に素敵なモノに思えるのではないだろうか?
そして、さらに非日常度を上げたければ、走ればいい。つまりランニングだ。ランニングを始める際も、ダイエットや体力づくり等の目的を設定しない方がいいだろう。目的を設定してしまうと走ることが手段に成り下がってしまう。そうなってしまうと趣味と呼べる状態まで日常に浸透させることはできないと考えるからだ。ただ走る、ということ以外の目的を持たないランニングを継続できた時、非日常であったはずの「走る」が、じんわりと自身の日常に染み込み、結果として日常は拡張されるのだ。
こうしたことの積み重ねで、少しずつ日常を拡張することを続けていくことが、人生を豊かにし、日々の充実感を増し、結果として変化に強い、人としての芯のようなものを作っていけるのだと、僕は信じている。
さあ日常に軸足を置いたまま、非日常に半歩だけ踏み出してみよう。明日の自分の日常を守るために。
*次回以降はそれぞれの趣味の掘り下げやここで紹介しきれていない領域などを掘り下げていきたいなと思っている。