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「聴く」待っている声に出会うということ


「ただ、訪ねていって聴き続けることです。聴かせてもらうことです。」

と教えてくれたのは、民族文化映像研究所の姫田忠義先生だった。


わたしは血気盛んな20代で、地域創生に関わって
「再生するべき何か」、「治すべき何か」
があると疑わず、自分に何ができるのかと焦燥感に駆られていたような勢いだけが溢れている時期だった。


ご縁があって、ときどきお会いしていた先生にたずねてみた。

「わたしにできることはありますか?」


そしていただいたのが、冒頭のことば。

血気盛ん、というよりは、何者にもなれず、何をしたらいいかもわからず焦っていたような、当時のわたしには、拍子抜けするようなことばにも感じたけれど、それでも、ずっとたいせつに胸に刻んでいる。

姫田先生の大樹のような存在感とともに、あの瞬間を取り出しては、今でもときどきそっと味わってみている。



クローズドで募集して10月4日からスタートしたライティング・ライフ・プロジェクトの1期のともこちゃんから、はじめて週末課題の提出があって、ほくほくと読ませてもらっていた。

こころの柔らかさそのままに表現したものを、
たいせつにやりとりしあうこと。

この「やりとり」の中でしか、出会えないものがある。
自分と自分の対話のときもあるけれど、そこに、見ていてくれる誰か、受け取ってくれる誰か、がいたときに、あたたかい空気が流れて、出現するものがある。


見いだされるのを待っていた声が、ことばとなって出現する瞬間。見いだされて、うれしそうに光を放つような瞬間。ずっとそこに「ある(あった)もの」にスポットがあたる瞬間。


わたしにとって、耳を傾けて聴くことは、
ただその瞬間をいっしょに待つようなことなのかもしれない、と、今朝、気がついた。



これが、姫田先生が言っていたことなのかな。


あの頃、何かをしたいと焦っていたわたしは、結局、流れのままに「対人支援」と言われるような仕事を10年もしている。地域に関わる事業をしていたときも、ひとりひとりに関わっている今も、必要なものはそのひとのなかにすでにあるということがよくわかる。聴けば聴くほど、わかっていく。

そして、今も「聴く」ということを探求し続けていて、「聴く」ことに魅了されてもいる。


そこでは、なにが交わされているのか。
ことばだけではなくて、ひびきを感じて、観察して、考察する。


探求の結果、わかったこともある。
それは、何を聴くのかとか、声を聴き分けていくコツがあるとか、どこにどうやって光を当てるかとか、相手の領域を侵さないようにする在り方とか、響き合う身体を感じること、とかとか。
外からはまったく見えないそれらのことが、
あまりに面白くて、10年経っても、まったく興味がつきない。


まあでも、ただ、自分の真ん中にいて、そして共にいられたら、それできっとじゅうぶん。

起こるべきことは、起こるべきときに、起きる。
そう信じていることが、いちばんたいせつなのかもしれない。


「そこに居るだけでいい」
という先生のことばが、ようやく少しだけわかりかけてきたんだったら、うれしいな。


人と人が、ただ共に居て、真摯に聴きあうだけで、
心を震わせるような美しい共鳴があらわれる。
その世界線を生き続けたいなあ、と噛み締める。




ああ、写真の本に触れられなかった。。。
これは、聴くことの本質を教えてくれるNVCの本です。(ざっくり!)
この本の読書感想文を書く講座に申し込んだので、
2周目を読んでいるところ。12月に発売されたら読書会でもしたいなあ。
きっと、この本の読書会は、わたしの界隈ではいっぱい開催されるだろうと思うので、NVCについてなにも知らないけれど、「聴く」ことに興味があるというひととやってみたい、つながりたいです。興味があるひとは、お知らせください。DMでもコメントでも歓迎です♡


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