「夜に駆ける」Ⅱ
昨日の「夜に駆ける」の解釈、いかがでしたでしょうか?
以前コメントしたカットキャベツなど、私のコメントのクセをわかっておられる方は、これから何を書くのかお察しかも知れませんね。昨日の前振りに対する本題が、今日のコメントです。
昨日の「夜に駆ける」の解釈。
"この解釈こそが正解だ!" とか
"こんな解釈ができて凄いだろー"
というために書いた訳ではありません。
1.
まず、ものごとの解釈は「何を前提にするかで大きく変わる」ということです。
「恋愛小説三部作」や「タナトスの誘惑」というタイトルを前提とするか、その前提を外すか。創作やアイデア発想であれば、前提を変えてみることで、捉え方・解釈はフィルターが外され、想像力の自由度が増すことになります。
これはフィクションであればいいのですが、ノンフィクションの場合、前提が事実かどうかが重要。事実でなければただの妄想と同じです。
2.
今回の解釈は「終わりではなく始まり」という結論ありきで、論理を逆から組み立てています。
ハッピーエンドであって欲しいという受け手の期待感が、三段論法で組み立てた、ぱっと見て論理的に間違って無さそうな、もっともらしい説明に、安易に納得させてしまいます。
さらに厄介なのは、その納得感が、結論に至る論理が正しいかどうかをよく確かめもせず、全て肯定的に受け止め、正しいことのように認識エラーを起こさせてしまいます。
よくよく考えれば、映像の目が隠されていることと、コード進行の違和感について触れているだけで、「終わりにしたい」という肝心の歌詞には触れていません。意識的に論点をすり替えています。
情報が錯綜する現代。特にコロナ禍において、こんな結論ありきの論理、最近多くないですか?事実ではないものを前提とする解釈、多くないですか?
[2021.03.28投稿]いいね:45