妄想:質より量、戦術の妙

***** ほめているわけではない。なぜ、われわれは旧来の戦術に押されてしまうのか。理論で勝って物理で負ける。それほど、われわれは仮想の世界でしか存在できないということなのだろう。

人口が多い方が、戦場に投入する人数の多い方が勝つ。それは、殺されても身動き取れなくなっても、その上を乗り越えてつぎつぎに「怒りの個体」が押し寄せてくるからだ。ゲームの世界でもよくある戦術である。だが、ゲームは物理的なニンゲンの損壊は発生しない。だから、少ない戦闘員でも押し返すことが可能だ。これは、つぎつぎとアイテムを積み上げ戦闘能力をレベルアップさせているからだ。仮想である。現実ではない。

戦闘意欲が衰えない。戦友の屍の上を怒りをもって乗り越える。その怒りの暴力は敵の戦闘員以外にも向けられる。それがむごたらしいほど勝利に浸れる。現実だ。仮想ではない。

現実の中で客観的な行動は、人質を取るということ。きわめて論理的である。守るべき存在が囚われて命の危険にさらされているのであれば、解放することが優先される。安全に解放するために、和平への扉を開けざるを得ない。

だが、人質を「戦争の犠牲者」と断定(見殺し)したところで、戦う双方の全滅作戦が展開される。その先は、核戦争である。現実だ。仮想ではない。

生き残るためにイクサを仕掛ける。生き残るために可能な限り戦場に人を投入する。戦闘員になるためには、少なくとも10年は待たなければなるまい、否、少年兵でも5歳に自爆装置を取り付ける戦術もある。生き残るために生殖を繰り返し、5年で戦闘員となる。

なんのための戦争だろう。当初の目的は、もう、だれも覚えていない。ただ、「怒りの個体」となって戦場に向かうだけだ。母も父も存在しない。戦うために、死ぬために負傷するために生まれてきたのだ。

それが、「質より量」の戦術なのだ。現実である。仮想ではない。

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#日経COMEMO #NIKKEI

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