更生可能をメディアはどう伝えるか

容疑 ≒ 更生可能?
であれば、バッシングはバッシングを行う人のためにあり、それを煽るのは煽る人のためにあるのであって、当人のためにあるのではない。

一番困惑しているのは、家族や友人たちであろう。「この人は、更生してくれるのだろうか。今の自分たちの苦しみを本当に理解してくれるのだろうか」という思いではないだろうか。

先日、あの清原氏が依存症治療の近況を説明していた。「周りの人の助けでここまできた」と要約してよい内容だったと思う。
人は一人で生きているのではない。好き嫌いや良し悪しに関わらず、関わって生きなければならないのが人である。
だから、自身の行動一つ一つが周りの人を喜ばせもするし、悲しませたりもする。できるなら、喜んでもらえる存在であり続けたい。そう、振り返っていたように思う。

なぜ、「容疑」ということばを使い始めたか。もう一度、私たちは省みる必要がある。更生を受け入れる社会があるから、人間でいられるのである。



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