消費者が生産者を動かすのです
つまり、「売れるモノを作る」法則のこと。
家畜は過酷な "労働環境" の中でその生命を終える・・・とするなら、消費者は「生きている間はできるだけ自由でいてほしい」願いを商品の選択に活かそうとする。すると商品には「このイキモノたちは、こんな環境の下で生きていました」と表示することが通常となるのでしょう。
イキモノたちのトレーサビリティ。生産者はイキモノたちが白日の下にさらされるわけですから、コストアップであったとしても売れる環境を整えることになります。
そのコストアップは価格に転嫁されますが、消費者は "当然のこと" として選択することになる・・・とならないから、生産者は二の足を踏むのです。
トレーサビリティで誠実な生産も、「安くなきゃいや、だって、生きていけないもの」にひっぱられ、無理な "過酷な生産" を行わなければならない。
起点は消費者で、その消費者が買えるだけの報酬が経済の中で回っていることが前提。つまり、賃金アップ。そうすると、企業は人件費アップでどこかの何かの価格が上がる。企業の利益確保にあまり貢献しない。
だとすれば、国が経済を "よりよい報酬>よりよい利益>より良い生産>より良い消費>より良い報酬・・・" と回さなければならない。
「そんなのできていれば、とっくのむかしにやってるよ」ですか・・・
でも、なんでうまく回らないんだろう。そうこうしているうちに家畜は "過酷な労働" の末、短い命を終え食卓に並んでいく。感情でモノゴトを盛った話をしてはいけないが、「イキモノたちは消費者に愛されている」のだろうか。
かたや、お墓まで作ってもらえる動植物たちがいる。通称ペットと呼ばれる動植物たち。まれに感情が高まってハグしてしまう、あの愛すべき対象。
そのハグした動植物を食卓に並べることをしない消費者。その違いは何だろう。人間の子供を愛するように対象物が望んでいようがいまいが、ありとあらゆる環境を多大な費用をかけて用意します。
消費者に愛されていない食物たち。どんな素性でも生まれて死ぬイキモノ。消費者の愛はどこへ向かっているのか、向かうのか。そこに経済が回るのだとしたら、自然由来の食物のありようはすっかり変わっていくのだろうと思うのです。
愛したい食物の誕生。それは、原子から分子に構築され3Dプリンターで構成された食卓に並ぶために生産された食物。自然に生まれた命をはく奪しない食物の誕生。
生産者は自然由来の生き物を取り扱わない。原子から分子を構築する生産に勤しむことになります。すでに、これは基本ができつつある科学です。
売れるモノを生産する。その法則は変わりません。
消費者は自然由来の "過酷な労働" の末に命を終えた動植物を選ばなくなるでしょう。食卓に並ぶために根本から管理された食品を選ぶことになります。愛すべきペットたちにも分け与えられる食品です。
自然由来では消化吸収できなかった栄養素も、少ない量で消化吸収できるように分子構成されています。それは、大量生産で余るような流通になりにくい構造にも貢献します。
これらが実現できて、ようやく "よりよい報酬>よりよい利益>より良い生産>より良い消費>より良い報酬・・・" が回りだすのだと妄想した次第。
私たちは、食卓を愛し食物を愛し生産者がそれにこたえる消費者であらねばと思うのです。財布の中身(カードの使用限度?)とにらめっこしながら。