妄想:ねばっこいイ〇〇エルの戦術にイ〇ン強硬派が巻き込まれる
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イ〇ンはロ〇アの傀儡になるのか。イ〇ン強硬派が実権を握ればア〇リカ合衆国の仲介は崩壊する。「バランスを取ってあげよう」と手を差し伸べるロ〇ア。だが、その実、「イ〇ンの自主」を逆手に手玉に取る戦術である。
イ〇ン改革派が三日天下に終われば、粘っこいイ〇〇エルの戦術に「柔軟に対峙する戦術」が流失われていく。残ったのは硬く動じないひび割れやすい強硬戦術だ。イ〇ンは革命成功後、最大の危機を迎える。ロ〇アとア〇リカ合衆国の狭間で右往左往し、国に愛想を尽かした国民が外国へ流出する。強硬派は経済運営が不得手だ。ロ〇アを頼るようになり、ロ〇アの影響を受けやすい指導者を選び、「ロ〇アの受けのいい戦略」をとるようになる。
イ〇ンの経済は困窮する。第二革命の足音が大きくなる。現政権と最高指導者の焦りが熱を帯び強硬姿勢に火が付く。国内粛清が蔓延り疑心暗鬼を呼ぶ。それが、第二革命の火種となっていく。
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イランの歴史(Wikipedia参照):
イラン高原の古代文明から現在のイラン・イスラーム共和国に至るまで数千年に及ぶ。現在のイラン・イスラーム共和国領域に限定した地域史として記述するのはほとんど不可能である。
紀元前6000年ころには、かなり高度な農耕社会を形成しており、都市の原型となる集住地も確認される。紀元前3千年紀には中央部と異なり、近隣のメソポタミア文明の影響を強く受けた文化が生まれた。紀元前2千年紀前半に独自の都市文化が発達した。紀元前2千年紀の末期にはアーリア人(アーリヤ人)、またはインド・イラン人と呼ばれる人々がイラン高原に定着し、イランの歴史の根幹を成す要素が形成された。1000年以上の長きにわたってエラムはオリエント世界の重要勢力として存続したが、紀元前1千年紀にアッシリアによって主要都市スサが破壊されると、列強としてのエラムの歴史は終わりを告げた。
アーリア人の歴史には紀元前9世紀頃から次第に光が当たり始める。彼らの中でも最も重要な二部族、即ちペルシア人とメディア人が、ほぼ同時に歴史記録に登場し始める。「高貴な人々」を意味する「アイルヤ」(アーリア)という自称を長く用い、紀元前3世紀のギリシアの地理学者エラトステネースも「イラン」の語で言及している。(イランと呼ばれ始めて何千年と王家の栄枯盛衰が繰り返される)
イラン近代史は政権を握るシャーに対して闘った1905年のイラン立憲革命、立憲君主制への移行を示す1906年の(暫定)憲法発布、1908年の石油の発見にはじまる。第一次世界大戦中、イランはイギリス軍およびロシア軍に占領されたが、基本的には中立を維持している。第二次世界大戦ではイランはソヴィエト連邦へのレンドリース法に基づく物資供給路として不可欠の位置を占めていた。
「米国の諸政権は、1953年のCIAの主導によるモハンマド・モサッデグ政権の打倒と短期間ローマ亡命中のモハンマド・レザー・シャー復権の事件に始まり、1978年にシャーを裏切るまで、イランへの直接の内政干渉を行った。」(アルノー・ド=ボルシュグラーヴ説)
米国から軍事援助、経済援助を受けて西側陣営にさらに接近する。政府は近代化政策を広範に実施、特に準封建的な土地制度を改革した。1965年の首相ハサン・アリー・マンスールの暗殺事件以降、国家情報安全機関 (イラン)(SAVAK)の活動が活発化。この時期、13,000人から13,500人にのぼる人々がSAVAKによって殺害され、数千人が逮捕・拷問されたと見積もられている。ルーホッラー・ホメイニー(1964年に追放)の指導するイスラーム勢力は反対活動を大々的に繰り広げるようになった。
数ヵ月におよぶシャーの統治への大衆抗議ののち、1979年1月16日、モハンマド・レザー・シャーはイランを去ることを余儀なくされた。短期間の次期政権と政策構想をめぐる攻防では、アーヤトッラー・ホメイニー指導のもとイスラーム国家への移行を支持する連合勢力が勝利した。1979年2月1日、ホメイニーがフランスから帰国(ホメイニーは追放後の15年をイラク、トルコ、フランスで過ごした)し、2月11日、最高指導者に就いた。1989年6月3日、ホメイニーが死去。専門家会議(高位ウラマーからなる)はアリー・ハーメネイー大統領を後継最高指導者に選出、スムーズな権力移行を内外に示した。