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【深い社会】7 知識の保存だ!探求ではない!

マンガの次は映画を紹介します。

「薔薇の名前」
https://ja.wikipedia.org/wiki/薔薇の名前_(映画)

中世キリスト教の世界を見事に表した名画です。
主人公の探偵役のショーンコネリーがかっこいい!
そして助手役のクリスチャン・スレーターが美しい!

映画の内容はネタバレになるので、省きますが、
この映画、いろんな場面で討論するシーンが盛り込まれています。


1 笑い論争
盲目の修道士
「修道士たるもの笑いは慎みなされ!
 笑いは悪魔の風、笑いは顔をゆがませ猿の顔にしてしまう。」

ショーンコネリー
「猿は笑いません。笑うのは人間だけです。」

盲目の修道士
「キリストは笑わなかった。記録がない。」

ショーンコネリー
「そうでしょうか。逆の記録もありません。
 聖者は異教徒をからかうために喜劇を利用しています。」


中世の修道士たちは、教会で何をしていたのでしょうか。
実は、毎日毎日写本と音読を繰り返しました。
内容を理解してはいけません。
ただただ、本を再生産することが修行だったのです。

たとえ、面白い内容があっても、笑ってはいけません。
感情を殺して作業を続けなくてはなりませんでした。


2 清貧論争
フランチェスコ会修道士側
「キリストが身に着けていた服は彼の財産か否か。
 教会は財産を放棄し、貧者に分け与えよ!」

アヴィニヨン教皇庁側
「しかし、教会が財産を失えば、戦費にも事欠き異教徒をはびこらせることになろう。
 アヴィニヨンに威容を誇る神の宮殿さえも主の威厳と栄光を表すのに十分とはいえぬ。」


のちにカトリックとプロテスタントの争いにつながる論争です。
カトリックのキリスト教体制が強くなるにつれ、アンチテーゼとして様々な派閥が生まれました。
そして、派閥間の抗争が激しくなるにつれ、相手を異端扱いすることも増えていったのです。


3 異端論争
異端審問官
(とらえられた元異端修道士たち(ドルチーノ派)に対して)
「異端を悔悟せず薬草調剤師を殺害、逃亡を企てた。有罪!」

ショーンコネリー
「確かに有罪に違いない。
 若いころ福音書に書かれたものを間違えてとらえた罪。
 そして清貧を尊ぶあまり見境もなく富と財産の壊滅に走った。
 しかし、殺人に関してはこの男は全くの無実です。」


異端というと、「チ。―地球の運動について―」のように、キリスト教世界を脅かす学問、他宗教に対してと思いがちですが、ほとんどは派閥同士の内部抗争でした。
ここで異端扱いされているドルチーノ派は、もともとは清貧を目指し人々に訴えた一派でした。
しかし、教会に不満を持つ人々の支持を集めるうちに、周囲の町を略奪するようになり、十字軍に討伐されました。
映画では、討伐を生き延びた修道士が、舞台になった修道院に隠れて生活していたところ、異端審問官に見つかってしまった、という設定です。

キリスト教とはいっても、様々な派閥が派生して入り乱れているのが現状でした。
それぞれ主張があっての派閥です。
おそらく、このような論争が様々な場所で繰り広げられていたのでしょう。

さて、映画の舞台になった修道院には、修道士たちが写本した、たくさんの本と、迷宮のような図書館が登場します。

ギリシャ時代に書かれた本は、ローマ帝国の時代になり、ラテン語に訳されます。ローマ帝国が滅んでからも各地方の修道院で保管されました。
また、同時にイスラムによりアラビア語に訳された本が、ヨーロッパに逆輸入されていきます。
修道士たちは本を集め、翻訳、写本し、知識を蓄積していきます。

映画の中で、老修道士が叫びます。

「一刻も早く常態に戻し、務めを果たすのだ!」
「知識の保存だ!探求ではない!」

しかし、本の存在はゆるやかに知れ渡り、その中身もゆっくりと伝わっていきます。
すると、当たり前に思っていたキリスト教の世界観が揺らぎ始めます。
「チ。―地球の運動について―」にしても「薔薇の名前」にしても
そのような、人々の不安が土台になった時代を表現しています。

さて、その不安感をもっとも端的に表した論争があります。
その論争こそが実はこの映画の主題となっているのですが、
一見してもわからないように作られています。

もうすこし深く見てみましょう。

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