【深い社会】18 西洋と東洋、どっちがすごいか。
明治時代にさまざまな学問が日本に入ってきたとき、人々は狂喜ともいえる形でそれを受け取りました。
しかし、次第に冷静になってくると、そこに疑問が湧いてきます。
「欧米の学問も大事だけれど、日本の学問も大事だよな。
どうしよう。」
前述の教育勅語もその一つです。
新渡戸稲造の「武士道」も、岡倉天心の「茶の本」も、
欧米文化と日本文化との対比で生まれました。
このように、本来ある命題「日本文化」をテーゼ、
対立する新たな命題「欧米文化」をアンチテーゼ、
そして、その葛藤ジレンマから生まれる新しい命題をジンテーゼと言います。
このような思考法を示したのがカントであり、
整理して、政治に運用したのがヘーゲルです。
哲学の分野でも葛藤を乗り越えようとした人物がいました。
「西田幾多郎」です。
代表的著作が「善の研究」です。
実はここまでの情報発信の道筋を教えてくれたのも西田幾多郎です。
カントもヘーゲルも、ベンサムもミルも、すべて善の研究に登場します。
なぜ、西田を取り上げるのか、という理由の一つが、実は「戦争」にあります。
西田が起こした哲学は「西田哲学」と呼ばれ、
様々な弟子たちを生み出します。
おもに京都大学の哲学科で育った弟子たちは、
その後、戦争を正当化する考えを広めたということで、公職追放されてしまいます。
西田幾多郎も長く、戦争賛美に影響した、ということで評価が低かったのです。
でも、本当に西田は戦争賛美をしたのでしょうか。
実は、西田の孫の本を読んだことがあるのですが、
決して戦争賛美をするような人物ではないのです。
神社の前を通っても、頭を下げることなく通り過ぎる姿を見て、その孫が驚愕した、
というエピソードがあります。
では、西田幾多郎が考えた哲学とはどんなものなのでしょう。
そして、西田にとって善とは何でしょうか。
「善の研究」を読んでみましたが、これが非常に難しいです。
まず、西田はすべてをゼロから考え直しています。
「主観的に考えるとか、客観的に考えるとか、みんないうけれど、本来、主観とか客観て本当にあるのかな。」
そして、すべてをゼロベースで考えたとき、そこにあるのは、純粋な経験しかないことに気付きます。
A
例えば、あなたは何かを手に取ります。
それは固くて円筒状で透明。
さわるとひんやりと冷たい。
B
あなたは気付きます。あっコップだ。
この、「あっコップだ」の前のAの部分。これが純粋経験です。
カントの言う感性と同じものだといって良いと思います。
西田は、この純粋経験をもとに、すべてを考え直してみよう、と思索を続けます。
「『あっコップだ』をカントは悟性と呼んだけれど、でも、その納得する行動自体は、純粋経験だよね。
そのあと、『このコップは高いのかな』と推論することを、理性と呼んだけれど、推論する行動自体も、やっぱり純粋経験だ。」
「あー、全部、純粋経験じゃないか。」
さらに、西田は様々な哲学者たちの成果を、これも純粋経験、あれも純粋経験と、分析し直していきます。
そして、最後にその行きつく先を示します。
「純粋経験の行きつく先は、そのものの統一作用である」
非常にイメージしにくいです。
私はこれを植物に例えて考えました。
私たちが一本の芽だとします。
芽は外界の刺激により大きくなっていきます。
いつしか木になっていくのですが、じつは植物の実在はその木の中ではなく、外側にあります。
外側にある葉が光合成することにより、植物は大きくなっていきます。
植物の実在の大きさは外側の表面積の大きさによります。
この外界と接する外側の部分が「純粋経験」です。
さて、枝を伸ばしていくと、ある問いが生まれます。
「太陽は24時間動いている。できるだけ光合成するためにはどうすればよいだろう」
すると、枝分かれしてそれぞれに葉を作っていきます。
この外界に反応する行動が「思索」であり、枝分かれが「判断」です。
こうして思索と判断を繰り返し、木全体としてどんどん大きくなっていきます。
最終的に、巨大な樹木が誕生します。
この巨大な樹木が、木が目指した「そのものの統一」です。
西田は善も同じだと言います。
私たちは普段行動するときに様々な判断をしています。
その判断の中身は、その場その場のバラバラな経験に根差しています。
ただし、判断の根拠はバラバラのように見えていて、実は、一つの人格として統一しようという働きをもっています。
分かりにくい考えですが、私たちの言動をふりかえると実は難しくありません。
私たち教師は、子どもに、
「そんなことしたら他の人に迷惑をかけるでしょ。」
と言ってますね。
これは裏返せば、「迷惑をかけない人」という統一人格を提示しているのです。
同じように、「世間に申し訳が立たない」は、「世間の求める人格」
「ご先祖様が恥ずかしくないように」も、「ご先祖様が求める人格」
「神に誓って」は、「神が求める人格」
というように、私たちは無意識に、統一された理想的な人格を求めています。
ここで、教育基本法を見てみましょう
「第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」
ほらね。人格の完成を求めています。
この「求める統一人格」が西田の言う「善」です。
純粋経験→統一された人格
私たちの認識が、経験と統一作用と定義された結果、
俗にいう「私」という概念は消えてしまいます。
私を構成するものは、外界との接点であり、その接点は外界にとっての接点でもあります。
それは雄型と雌型の関係にあり、形は同じ。
ここに、私は無であり、私は世界の一部である、という悟りにつながります。
この発想は非常に東洋的です。
こうして、西洋と東洋の哲学を統一したのが西田哲学なのです。
この後も、西田哲学は弟子たちにより批判されるのですが、
「西洋と東洋を統一し、新たな価値観を作ろう」という方向性は
まさしく統一作用として弟子たちに受け継がれていきます。
そしてその思想概念が、日本の戦争賛美につながっていったのです。
戦争が終わり、
たくさんの人が亡くなりました。
西田の「善」は、かならずしも世界を統一しないことが証明されました。
そんなときに、戦地から一人の人物が帰ってきました。
西田幾多郎の孫です。