【深い社会】19 差別を生んだのは、私たち教師。
戦後、貧しさの中、子どもたちは荒れていきました。
そんな中、教育実践を積み重ねたある一人の教師を紹介します。
教卓の側に立って私がおもむろに発言しようとすると、
突然、男前やなー、と、突拍子もない声が飛んできた。
「今日からクラス担任になった○○です。」
「タンニンちゃ、なんのことな。」
「このクラスのウケモチは今日から私だからしっかり頼むぜ。」
「ウケモチ言うたら何のことな?いうてくれんのな?ほうな、ほんだらぼくも帰るわ。明日弁当いるんな?今日もう帰ってもええやろ?ぼく帰ったらテレビ見るんで、ぼくテレビ見てプロレス見るんや。」
と、妙にカン高い大声でしゃべりつづける。
生徒はゲラゲラ笑うし、あっけにとられていた私もさすがにかっと来て
「うるさい、だまれ!」とありったけの声をふりしぼる。
「これは病院行きだ。学校へ来る子どもではない。」
と私は、情けないやりきれない気持ちで、しばらくその子の顔を眺めているばかりであった。
心が痛みますね。今の学校の姿に通じます。
戦後日本の教育改革に、アメリカの新教育が導入されます。
作られたのが社会科です。
道徳は作られませんでした。
戦前の道徳「修身」は戦前の体制を肯定するとされたからです。
教師たちは不安になります。
戦後の貧しさの中、荒れる子供たち。
何をもって教え導けばよいのか。
アメリカの教育使節団がすすめたのが、「ガイダンス」です。
デューイをはじめとする子供中心の新教育の実現にとっては、なくてはならない概念です。
目的は、個の確立と集団作り。
子どもの学びと成長の案内としての機能をもっていたのですが、
日本では、充分にその中身が伝わらなかったようです。
「道徳」の代わりとして受け入れられました。
生まれたのが、「生活指導」と「特別活動」。
これが、クルプスカヤ、マカレンコの生活指導と結びついていきます。
結びついた結果、日教組を母体とした研究団体が誕生しました。
それが全生研、「全国生活指導研究協議会」です。
どんな実践だったのでしょう。
冒頭の教師の名を「大西忠治」と言います。
大西はまず、級長を決めました。
級長が全体に責任を持つよう励まします。
次に班の編成を行いました。
班長を決めます。
班長達にも班員に対する責任を説きます。
その上で、問題行動のある生徒に優秀な生徒を付けてフォローさせます。
このように、班を構成するリーダーを作ることを「核づくり」
集団を機能させるグループ作りを「班づくり」と言います。
その上で、子ども同士で民主主義的に討議ができるよう、訓練していきます。「討議づくり」です。
集団の「核」「班」を様々に機能させ、「討議」できる「集団」をまとめあげていく。
これが日本型集団主義教育です。
秩序のなかった学級が秩序ある学級へ。
学習が成立しなかった学級が、学習効率の高い学級へ。
集団主義教育は日本全国の教師たちを捉え、急速に広まっていきました。
現在の学校を振り返ると、
「日直」「学級会」「委員会」「代表委員会」「クラブ活動」「行事実行委員」「朝の会」「帰りの会」などなど、私たちがあたり前だと思っている学校文化に当時の全生研実践の名残がたくさんあります。
ただね。
良く聞こえるこの実践も、いろいろと批判がありました。
大西の実践を読むと、かなり丁寧に集団作りをしていることが分かります。
リーダーとなる生徒の分析、励まし、叱責。
リーダー同士の競争。
問題ある児童への圧力。
特に、全生研実践で問題となったのがボロ班競争です。
遅刻や忘れ物をすると、グラフ化された班ごとの成績にマイナスが付きます。
もっともマイナスだった班はみんなの前で反省し、帰りに残って班会議を行わなければなりません。
遅くなるのは嫌なので、班同士でお互いの行動を指摘し合います。
当然、班の足を引っ張る問題生徒に対しても、容赦なく指摘し合います。
これを「追求」といいます。
友達に指摘されるので、確かに行動は変化します。
しかし、これは完全に差別構造です。
子どもたちの自尊心はボロボロになります。
中にはストレスで円形脱毛症になった生徒もいたそうです。
そうして出来上がったのが、教師を頂点とし、
核となるリーダーたちが他の生徒を支配する、ピラミッド型の組織です。
あ!プロレタリアート独裁!!
結局、全生研が作り上げたかったのは、強固な社会主義体制だったのです。
さて、ソ連の社会主義、全生研の社会主義、
このような事態に陥らないために、どのような構成主義原理があればよいのでしょう。
全国に広がった全生研の実践ですが、
ある一人の青年教師が異議を唱えます。
「『自由で平等な場』からの出発」
その青年教師の名は「向山洋一」。
26歳でした。