ジェンダー論への雑感
「性別はグラデーションである」
わたしの大学の指導教員の格言であるが、今になってその言葉の持つ意味を痛感している。
近年になりようやくジェンダーとセクシャリティを巡る議論について「隠される」ことが少なくなってきたように思う。
学校現場においても「ジェンダー」や「LGBT」という言葉が聞かれるようになってきた。
しかし、それ自体は意味のあることだが、ここにもぬぐい去ることのできない違和感があるのも事実である。
「LGBT」のうち、LGBはレズビアン、ゲイ、バイセクシュアルという性的指向についてのマイノリティを指して使用される。
Tについては、トランスジェンダーとして、性自認におけるマイノリティを指すカテゴライズの方法である。
ここでは本来、性的指向と性自認という異なる文脈で議論されるべき問題が、「セクシャルマイノリティ」というカテゴライズにより混同されている。そして、その中で異端化された表象が「LGBT」であり、多くの「ジェンダー」を巡る議論の中心になっている。
こうした議論の危うさは、常に「男性」「女性」と二元化された性自認を前提とする人々が、「セクシャルマイノリティ」と位置づけた人々を「特別視」する部分にある。
つまり、「自分たちとは異なる存在」と「セクシャルマイノリティ」を位置づけることで、逆にその区別を助長しているのである。
ここには、社会的に規定された生殖前提の異性愛を普遍化する性的指向の「当たり前」と、「男らしさ」「女らしさ」という性自認の「当たり前」が共犯関係に置かれ、「当たり前」からの逸脱として「LGBT」が位置づけられてしまう。
繰り返すが、性的指向と性自認は全く異なる問題である。
そして、性的指向には複数性があるかもしれないし、その時々によって指向も変わることもありうる。
性自認も同様で、自分の「らしさ」は変動することも当然有り得るし、それが複数存在することもある。
例えば、シンガーの曲を熱唱する「女らしさ」に自己投影する時もあれば、スポーツ選手に自己投影する「男らしさ」も同居する事は、自己のアイデンティティにおいては当然の事だろう。
つまり、「可愛いらしさ」「かっこよさ」「めめしさ」「たくましさ」が並列することに問題はないのである。
問題は、常にそうした複数性や変動性を認めない性に関する社会規範にある。
典型的なものは、制服である。
例えば、男性用と女性用という二元化された設定そのものも言語道断であるが、その制服という装置を身につけた瞬間に、その服装に規定された性に自己が束縛される。
そして、そこからの脱色を図る動きは異端としてあるべき「らしさ」に規律化されていくのである。
このようにして、常に自己の在り方を巡る撹乱の動きを否定され続けることになっていく。まさに「自分らしさの檻」がジェンダー規範によってより強固になっていく。
こうした規定と束縛を脱するために、性規範からの脱却が急務となろう。
重要な事は、これらの観点は、決して自己を「セクシャルマイノリティ」であると位置づけているものだけの問題ではない。
本来、多くのものが経験している逸脱への渇望ではないだろうか。
社会はあまりにも「性別」や「性規範」を特権視しすぎていると思う。
冒頭に述べたように「性別はグラデーション」なのである。そして、性自認も性的指向も複数存在し、変動可能性がある以上、そこをひとつに収斂され束縛していくことは、生きづらさを助長していくだけである。
性別に縛られない社会とは、「LGBT」を特別視するのではなく、誰しもが、「性別」によって規定されずに、自己実現を果たしていくことにあるだろう。
だからこそ、世間に溢れる性規範への撹乱を図っていくことがその第一歩となる。