「戦場への動員」をめぐる問い
多くの戦場経験者が、自身の戦場の記憶を多くは語らず、語ることに抵抗を覚えていただろう。語るためには、戦場という人殺しの現場における自身の加害行為の記憶や、仲間の死などのトラウマの連続と向き合う必要がある。心理的負担を常識的に考慮しても、並大抵のことでは無い。しかし、戦場の記憶を語るにせよ、語らないにせよ自身が戦場を経験した問題は、いつまでも心の淵に巣くっており、それは戦後においても、戦場の記憶に動員され続けていること意味する。
そのため、長い年月を置いたあとに自身の戦場経験を語る際に見られる一般的な傾向は、「戦場は地獄」であるという、言わば自明となった事象の明示的な側面にすぎない。そこにあるのは、悲惨な仲間の死であり、家族の死でありトラウマである。その自らが経験したトラウマを、現在を生きる人々に共有することで、彼らは戦場の恐ろしさ、戦争の無意味さを語る。そうした語りを受け取る現在を生きる人々は、戦争は恐ろしいもの、二度としてはいけないものという決意表明を新たにする。
ここにあるのは主体が不透明になった戦場の記憶である。戦った本人や殺された敵、味方は、語りの登場人物として浮遊した存在となる。語った本人にとっては、その存在こそが「真実」であり、記憶は記憶として留まり続ける。
しかし、語りを受け取った私たちにあるのは、「恐ろしい戦争」への陳腐な想像にすぎない。そして、この認識の前提にあるのは、悲惨な戦争と平和なわたしたちという構図である。それは、悲惨な戦争の時代に比べて、「今はなんという平和な時代に生きているのか」という、現状肯定の認識である。戦争を学ぶことが、平和の尊さを認識するだけでなく、現在の世界が、私たちの生活が「平和」な世界であると錯覚させる要因になっているのではないか。
この認識に現代的な諸問題の根本が見える。つまり、現在と過去との明確な断絶である。現代の「平和な社会」は、過去と全く無関係である。もしくは、過去の悲惨な事実があったから現代は平和になったのだとする安直な因果関係であろうか。いずれにせよ、それらには、過去の問題が現代の社会情勢にいかなる影響を及ぼしているか、そしてその影響が私たち自身にいかに関係しているかという、切実な問題はない。
むしろ「悲惨な戦争」を知ることが、現代社会への認識をより陳腐なものにしていると言える。
悲惨な戦争の記憶から現代を生きる私たちが学び得る事はなんだろうか。
重要な事は、現代社会がアジア太平洋戦争という「戦場」を経験した社会の延長線上にあることを認識すべきだろう。
戦時下で目指されたもの、実践されたもの、課題として残ったものが、戦後社会にいかなる影響を与えたのか。論点は多く切り口は多様である。
そこで、現状の世界は、戦場と切り離された世界なのか。戦場の記憶は過去のものなのか。私たちの日常において戦場は常に設定されているのではないか……こうした問いと想像力を深めていくことが必須になる。
戦場は常に、兵士が動員される場所である。その動員の力学は、総力戦の経験を経て生き続けているのではないか。ブラック企業、社畜労働、同調圧力、個人の尊厳の欠如など、示唆は多い。
そして、この力学はいかに相対化されるか。その動員の力学の相対化、すなわち脱動員を目指す事は可能なのか。この問いは未来の模索へと結実する。