日々、断片

日常とは断片である。

毎日の時間の過ごし方を一分一秒と継続して記憶しているのではない。
今日は何があったか。何をしたのか。常にあるのは断片的な記憶である。

断片にこだわりたい感情は明らかにカフカの断片集を繰り返し熟読している影響が強い。

自分が見ている世界、聴いている世界をこのように表現したいと心から思った。

「いつでも準備はできている。どこにでも引っ越せる。だから、ずっと故郷にいる。」

この三文の中にどれほど自分の生活の断片が凝縮されているのだろう。

具体的かつ詳細に、そして長く語ることによって自分の思考を語ることはできる。
けれどもそれは、語る文章によって再構築された時間であり、意図して構築された物語である。

おそらくそれは日常の実感としての断片ではない。

断片を語る言葉は多くは語らない。
しかし、その散文の中に自分の生活が象徴される。
そこには日常に無理に意味を持たせようとする作為は存在しない。
極めて実存的な実感があるだけである。


断片を語ることができる言葉を失ったのか。
それとも、元々そのような技能を持ち合わせていないのか。

生活の中で常に何かの意味を持つ物語が求められる。
断片として存在するはずの自分の日常を無理に繋ぎ合わせ、無理に意味を見出そうとする。
そんな脅迫から自由になりたい。

日常に意味は見いだせなくても、断片的な景色が自分の生活を彩っている。
その景色を語る言葉を求めている。

それ自体が断片的な景色を有意味化する自己矛盾かもしれないが。


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