「なりたい自分」
「自分と向き合いましょうね。」
日頃からこんな事を散々生徒に言っている癖に、自分自身が「自分」と向き合っているかと問われると答えに窮する。
もちろん、日々の言動について反省はしているし、次はこうしようといった場対応的な構想はする。
しかし、「自分自身」や「将来」といった根本となる部分については、いつからか考える余裕を失っているように思う。
「なりたい自分」
この間、勤務校で開催されていた作文講座の内容であるが、生徒たちの書いていた内容を読んでいる中で、わたし自身も問われた気がした。
なりたい自分とはなにか。
それは、過去と現在という今の自分の在り方の延長にある将来像であり、「職業」や「性格」といった抽象度の高いものから「行動」などの具体性の高いものまで範疇になる。
作文模試の試験監督をしながら50分間思索した結果は以下のようになった。
「他の人の将来を一緒に考えられる人間」
教員なんだから当たり前だろうという感じもするが、「学校的な文化で要請される将来像」や「教員による進路相談」も含んだ上で、もっと広い意味での「将来」を定義している。
つまり、目指すべき道として固定化された「進路」ではない未来像を一緒に語られる存在である。
重要なのは、「過去」ではなく「未来」であること。
もちろん、過去についての対話も重要である。
しかし、過去は過ぎ去った内容であり、何も変えられない。
個人的なポリシーがある。
「人の夢を否定しないこと」
先が見えないと言われる現代社会だからこそ、個々人が描く将来像や「夢」も多様化している。
むしろ、可能性がより広がっている。
多様なコンテンツに触れ、多彩な視点を持った人たちが溢れている。
そうした中で描かれる「夢」は可能性の塊であり、この社会を変えていく原動力になる。
だからこそ、人の夢を否定することなく、建設的な対話の中でそれを具体化できるようになりたいと思う。
そして、そのためには、自分自身の知識量と思考力と視座こそが問われる。
知識のない思考には説得力はないし、確立された視座がなければ対話として成立しない。
そうであるからこそ、わたしは学ばなければいけない。
「なぜそんなに本を読むのか」
と、問われることがあるが、とりあえず上のように答えることにしたい。
「話が面白い」
説教臭くなく、無駄に長くなく、フラットに、それでも核心をつく。
ボキャブラリーを豊富に、多彩な視点を考慮して。
そういう訳で、今日もやりたいことが沢山である。
けれども、「なりたい自分」を改めて考えることで、「やりたいこと」の目的が少し定まった気がする。