切抜10『暮れる夏、幸福な食卓』
2021年の夏が私たちに背中を向けだした8月の終わり。
朝の蝉の遠鳴と加減を知らない太陽の日差しに涼しくなるのはもう少し先かと思いやり、家の前の横断歩道を渡った。
月日の流れる速さに驚くどころか呆然と立ち尽くしているような毎日を送っている。自分の気の浮き沈み具合、空腹の調子、眠気といった生理周期的なものに以前までのようなこれといった気を使うことなく、近頃は「なんとなく調子が悪いな」と言って誤魔化すことにした。 そんな不調が最も表れる時期が、まさに夏から秋に季節が移る今だ。この日も忙しい仕事をこなして、なんとかして生き延びていかなければと、心の深いところで呪文のように唱えた。
この日の仕事の帰り道。家から近くにあるセブンイレブンに立ち寄った。普段ならサラダチキンやパスタサラダで満足するところだが、連日空腹であることを大声で知らせる腹の虫を鎮めるためにも、今日は思い切って丼モノを買って帰ろうと考えた。「五目あんかけ丼」「牛丼」「豚ヒレカツ丼」、どれもそそられるものばかりだが、いまいちピンと来なかった。ふと棚の一番下の列に目をやった。
「タコライス」、コンビニ弁当でもあまり売っている姿を見かけないなと思った。その物珍しさと、とある懐かしさに気持ちを押されて、私はそれを買って帰ることにした。
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大学2年の秋、私の一目惚れから始まり、重ねた時間と互いの感情の流れの中で交際に至り、そこから3年ほど同じ屋根の下で暮らしを共にした恋人が居た。私は彼のことがとにかく大好きだったし、何より彼の作るご飯と一緒に囲う食卓が好きだった。
いつかのちょうど夏の終わり頃、
「今日の夕飯はタコライスだよ」
台所に立つ彼が言った。タコライスがそもそもなんだったか分からなかった当時の私は、てっきりタコが豪勢に混ぜこまれた炒飯のようなものだと想像して1人でムッと顔を顰めていた。未知の料理を口にするという恐怖と好奇心が心を巣食っていた。出来上がりが気になって仕方がなかった私は、彼の後ろからボウル皿が順番に彩られていくのを見守ることにした。
彼がフライパンの上で炒めている挽肉とみじん切りの玉ねぎがみるみる焼き色を纏っていく。手際良く進められる調理の中で、トマトソースとコンソメ、クミン、砂糖が足される。換気扇に召されていく香りたちが部屋の隅の方にも広がっていく。冷房をつけていてもじんわりと汗ばむ、夏の空気に似た台所の前で彼の背中からタコライスが出来上がっていく様をゴクリと唾を飲み込みながら眺めた。
炊きたてのふかふかのご飯の上に青々としたレタスが乗せられる。さっきまでフライパンの上で炒められていた挽肉たちがその上に流し込まれる。熱が少しでも冷める前にミックスチーズがその上に散らされた。出来上がったタコライスを見たその時、絶対に美味しいということだけは本能的に理解出来た。
二人暮らしをしていた時、大皿料理が出た時は二人でスプーンや箸を用意してその皿をつついて食べるということをよくしていた。この時出来上がったタコライスもそうやって食べることにした。
香りから美味しいと分かるそれを目の前に、まずは一口、とスプーンを進めた。たんまりと掬いとったタコライスを口いっぱいに頬張る。肉の熱で少しだけしなったレタスが奥歯でシャキシャキと鳴る。ご飯のデンプンの甘みとトマトソースの酸味、肉の脂が混ざった甘い玉ねぎ、それらを包むように口の中で絡むチーズ。この味は幸せ以外の何物でもないと思った。
その時私がどんな表情をしていたかは分からないが、彼は隣で私がタコライスを頬張る瞬間を目を大きく開いて見ていた。目が合って食べていたものを飲み込んで一息ついたところで「美味しい」とハッキリと伝えると、彼は満足そうにニッコリと安堵の顔を私に見せた。そんな彼の嬉しそうな顔を見て、彼に対する感謝の気持ちと愛情が心の中で育まれていくのを感じた。出来たてのタコライスが冷めてしまう前に、私たちはスプーンを進めていった。それから定期的に、美味しいものが安価で作れて食べられるからという理由で彼はタコライスを作ってくれた。
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部屋に帰り戻り、コンビニで温めてもらったタコライスを冷める前に食べることにした。過去の思い出や味を思い出しながら、一口ずつプラスチックのスプーンで掬っては頬張っていく。味は確かにそれとなく似ている気がするが、でもやっぱり、やっぱり違うんだなと思う度に気持ちが重たくなっていった。私が初めて食べた味、彼が定期的に作ってくれたタコライスのあの味は、彼の手でしか作り出せない特別な味だったんだな、と。
無心で弁当を食べ切り、そういえばと思いスマホを開いて写真フォルダを遡っていると、私が一人暮らし生活に戻った時に彼に質問したタコライスの作り方のLINEのスクリーンショットが見つかった。ざっくりとした書かれ方だったが、彼の言いたいことが4,5年程経過した今でもちゃんと伝わってきた。作り方を教えてもらってから一度作ったか作ってないかは記憶にあまりないが、いつかちゃんと、教えてもらった作り方でタコライスを作ってみようと思った。
数日後、夢で彼が出てきた。何かしていた訳では無いが、とりあえず元気そうにしていたことだけは微かに覚えている。
「この前食べたセブンのタコライス、君の作ったものよりあまり美味しくなかったよ。」
目が覚めてから伝えたいことを思い出した。
夏が終わり、秋がやってくる。
こんなにお腹が空く今日は、何を食べようか。