23行、8枚綴り 【だいたい2000字小説】
A4サイズに23行、8枚綴り。
それが凛にとっての戦場です。
初日の午前は、3時間のラウンド。午後は、2時間のラウンドが2コマあります。
2日目は2時間のラウンドが3コマあって、3日目に休みを挟みます。
4日目が、2時間ラウンド2コマで、5日目の最終日には、マークシートで50〜75分を3コマ受けます。
終了間際にヘロヘロな力無い線で「以上」と記載して締め括って、ラウンドを終える毎に、熱をもった手首を回しながらもう無理だと遠くを見やります。
それでも、30分も休めば手首は元通り動くようになりますから、案外、人の身体は頑丈なものです。
本日は、3日目の中日にあたります。
凛は、ホテルの朝食を摂ったあと宿泊している部屋のベッドで横になって、枕元の間接照明のなかのオレンジ色の丸を眺めていました。
隣の部屋のドアが開閉する音や、離れたところで始まる掃除機の音が、部屋のドア下のわずかな隙間から忍び込んできます。
友人たちと「山を越えた」なんて言いながら、ドラッグストアで入浴剤を選んだ昨夜が遠い過去のようです。
凛にとっては、3度目の挑戦になります。手応えは、知りません。
初年は、ただただ緊張して、来年にはと期待もありましたが、
次の年には、手応えを感じていた科目で大コケしてあっけなく敗れ、
3年目の今年は、手応えなど毛頭ない試験なのだと悟りを開くことしました。
志望理由は、忘れました。
覇気は、はじめからありません。
凛は、選択科目のあそこが薄かった、公法系の規範はあれでよかったのだろうか、民事系はやっぱりあの事実を拾うべきではなかったかと、既に終えた試験の最適解を間接照明のオレンジ色のなかに見出そうとする自分に気づいてぞっとし、終わったことは忘れて明日に備えなければと、鉛棒のような右腕を伸ばしてタブレットを手に取ると、資格試験予備校の配信する動画の再生ボタンを押しました。
横になったままでも見えるようにタブレットの角度を調整して、枕の厚みもボフボフ叩いて整えてみるのですが、耳に入ってくる構成要件の定義や学説の対立はただの音でしかなく、画面に表示された文字や図表もただの記号として目に映るのみです。
気持ちは、心は、どこかに置き忘れてきたようでした。
そのような平坦さは、平常心と捉えることができれば試験向きかもしれませんが、いまの凛には肯定的に捉えることさえ億劫なことに思えるのでした。
凛が溜め息をつくと、スマホが鳴りました。
母親から新着のメッセージが入ったようです。
凛は、サイドボードに置いていたスマホを手に取って開きました。
動画が添付されています。
認知症の進んだ祖父が、戦後の警察時代の話を熱弁しています。
祖父と同居する凛も母親も何十回と聞かされた話ですから、その後の展開や主要人物の台詞など、祖父に代わって話すことができるまでになっていました。
口パクで祖父の話を真似る母が画面の隅に現われて、半目で口を歪めたおどけた表情をし、そこで動画は終わりました。
「はいはーい」
通話に応じる母親の声を聞いて、凛は、呼吸が少し楽になったのを感じました。
「お母さん? おじいちゃんはどう?」
凛は、努めて明るく聞こえるように母親に訪ねました。
「もうねー、いつも通りよ。なんなら、凛がいない分、おじいちゃんが饒舌に見えるくらい。
そろそろ入浴したいって言い出すはず」
元気なのは何よりだけどね、と母親が付け足します。
「試験は、あと2日間だっけ?」
「そうそう」
「早く帰ってきてーって言いたいとこだけどね」
母親は、笑いながら言いました。
「私も早く帰りたいけどね。
でも、試験終わってそっち戻っても、10日間くらいは自主隔離でホテルに泊まるから……」
「まあねー。じいちゃんに何かあってからでは心配だものね……」
沈黙の生まれる気配がしたので、凛は、そうそうホテルの朝食がね、などと取るに足らない話題をふり、母親は、一緒に受験している友人たちの様子はどうかと気遣うなどして、しばらく話しました。
「とりあえず、お母さんはお母さんで頑張るから!
あんたはあんたでしっかり頑張んなさいよ!」
うん、とだけ応えて、凛は母親との通話を終えました。
廊下で響く掃除機の音が、凛の部屋の前まで来ているようでした。
“駅前のカフェで勉強する人ー?
というか、私は、既に向かってるから気が向く人はご一緒に!”
朝から返信できないでいた友人からのメッセージを開きました。
“今から向かうね!”
凛は、明日の参考書と資料をスーツケースからトートバッグに急いで詰め直しながら、帰ったら、母の息抜きに付き合わねばなと思いました。
タブレットの配信動画は次の動画へ進み、強制処分法定主義と任意捜査の限界についてツトツト語り始めています。
みんなの努力が実りますように。