忘れ物防止タグ 【だいたい2500字小説】
巷で話題の“忘れ物防止タグ”を夫の通勤カバンに忍ばせたのは今朝のことだった。
500円玉大で、スマホやタブレットと同期させれば、遠隔地にいても手元にあるデバイスのアプリからタグの所在を検知することができるらしい。
人や動物の追跡には向かない、なんて注意事項に挙がっていたけれど、それは対象が動くことを前提として正確に検知できないことへのリスクヘッジであって、特定の場所に一定時間滞在している対象であれば検知が可能なはずだ。
何よりGPS端末より割安で手に入るし、ものは試しである。
結婚三年目。最近、夫の動きが怪しい。
夫の同僚の奥様は「残業ゼロを推進している夫の職場に万歳🙌 昨夜も一緒にお夕飯できました❤️」なんて食卓の写真をSNSに上げている。
にも関わらず、うちの夫は、平日も2、3日、土日いずれかは(夫いわく)残業が入る。
ポケットにお店の名刺が、とか、シャツに口紅が、なんて確信犯的な証拠はまだない。
ただ、スマホを脱衣所まで持ち込んだり、ソファで横になってスマホ片手にニヤけている夫を窺っていると私に気づいて真顔で姿勢を正したりする。
三年目のなんとかっていうし、バリバリ働いている頃にあったはずのキラキラ輝く自信はクローゼットの端の方に潜んでしまった。
朝食の後片付けと、洗濯機を回しながら部屋の掃除を終えた後、コーヒーを淹れてテーブルにつく。
紐付けしたタグの様子を見るため、スマホのアプリをタップした。
案の定だけれど、ピンマークは、夫の勤務する会社にあった。
きちんと機能していることに安堵してコーヒーを啜る。ほんの少し、口角が上がった。
まだ夫が出勤していることしか判明していないというのに、頭の中では『ジェームズ・ボンドのテーマ』が流れていた。
片手鍋に昆布を泳がせながら味噌汁に入れる野菜を切って、浸水しておいた炊飯器の「早炊き」ボタンを押す頃には18時を回っていた。
成形してチルドに入れていたハンバーグをバットごと冷蔵庫から取り出すと、スマホが鳴る。夫からだった。
「今日も残業なり💦 夕飯は、テキトーに食べて帰るから」
ごま油を熱したフライパンに、赤いハンバーグをひとつだけ静かに置いて、立ち登る煙から逃げるように換気扇の「強」ボタンに手を伸ばした。
ごおごおいう音に、肉の焼ける音も白い煙もリビングから漏れてくる夕陽にきらめく水と油の粒までも吸い込まれていく。夫からのメッセージもハンバーグひとつ分の私の気持ちも吸い込まれてほしかった。消えてほしかった。
輪郭の滲むハンバーグを裏返して、フライパンに蓋をして火を弱めてから、大根おろしに取り掛かる。
大葉と大根おろしを乗せた和風ハンバーグに味噌汁とご飯を並べる。
タグを探すアプリを開くと、夫が会社から出たのか、ピンマークが50メートル圏内の路上で揺れていた。
他者のデバイスと紐付けされた忘れ物防止タグが自分の荷物に紛れ込んでいると、スマホにそれを検知した通知が入るらしい。
ストーカーに悪用されないためには嬉しい機能だけれど、正直なところ不倫調査には邪魔な機能だと思った。
もっとも、うちの夫はOSのアップデートを面倒くさがるタイプだから、夫のスマホで検知される心配はない。
問題は、夫に同行者がいる場合に、そちらのスマホに通知がいくおそれがある点だ。同行者のもつスマホが古いOSかもしくはAndroid系であることを祈るしかない。
味噌汁を飲んで、漏れた溜息がテーブルに転がっていく。
スマホの画面に視線を戻すと、タグのマークが止まる。
地図アプリで確認すると、居酒屋が数店舗入るビルのようだった。
百歩譲って、居酒屋でする“会議”だって“残業”のうちかもしれないと考えて、私は、夕食を咀嚼する作業に移った。
決定的な異変は、お風呂上がりに起こった。
ドライヤーで髪を乾かしていると、居酒屋から出て揺れていたアプリのマークが、ある場所で止まった。
それは、私たちが挙式したホテルだった。
1時間経っても、マークはそこから動く気配がない。
もう、ジェームズ・ボンドどころではなかった。
私は、クローゼットから一張羅のワンピースとダイヤのピアスを選んで、乳液を均したばかりの肌にファンデーションをのせて、自分史上一番というほど全力で武装してからタクシーに乗った。
ホテルの前に着いても、マークはまだ動かない。
私は、部屋の前までいくことに決めた。
ホテルのフロントで事情を説明すると「担当に代わります」とスタッフが引っ込んだ。
既にこういった類の問い合わせに備えているなんて時代だな、なんて感心していると、担当としてやってきた女性スタッフに名前を聞かれた。
そのまま、エレベーターに同乗して上を目指す。
なんて言ってやろうか、夫が一緒にいるのはどんなひとだろうか、憤りや不安を一個一個積み上げるのと心拍数が比例する。
エレベーターは最上階で止まった。
そこには、ホテルのレストランがある。
その窓際の席に、夫がいた。
「来てくれなかったら、どうしようかと思った」
私を見つけた夫は、優しく目尻を下げた。
「夕飯、ハンバーグだったのに」
「和風にしてくれた?」
スタッフが引いたチェアに座って、対峙した夫に頷く。
「帰ったら食べたいな」
夫が、私のグラスにシャンパンを注ぐ。
ボトルの半分も減っていたそれは、泡の勢いがなくてすっかり大人しい様子だった。
「それじゃ、告白記念日一週間前を祝って!」
「あれ? そうだっけ?」
「そうだよ。忘れてたでしょ?
俺にとっては、一番初めに勇気を振り絞った日だったからね、特別。
本当は、ちゃんと記念日にサプライズしようと思って、いろいろ計画してたんだから。
まあ、隣の席の山田に忘れ物防止タグが検知されたおかげでこんな形になったけど」
夫の職場で検知されるなんて予想外のことに、グラスを掲げながらごめんと謝ると、俺の一帯みんなで荷物ひっくり返して大変だったんだからと話して笑っている。
はい、と目の前に差し出された円形は、大事な“忘れ物”を思い出させてくれた。
すごく優秀だとわかったから、もう人に対して使うのはよしておこうと思った今日この頃……。