存在しないイソップ物語 「黒い箱」
ある大きな家に4人の家族と1人の家政婦、そして1匹の猫が住んでいました。
父親はベンチャー不動産の取締役、金こそ稼ぎますが家庭を顧みない粗暴な性格で、母親はそんな男と結ばれるくらいですから、男の稼ぐ金と自身の容姿以外に誇れるものなど何一つとして無い空っぽな人間でした。
そんな2人の下に生まれた兄妹ですが、気の弱い息子は父親の重圧に耐えかねて大学受験の失敗後引き込もり、娘はこれら家族に嫌気がさし、夜な夜な外を遊び歩く毎日です。
家政婦は1年前、この家に雇われました。父親の不動産業はここ数年で数十人から500人規模へと大きな成長を果たしましたが、その実、社長の人脈による無理な借り入れで存続しており、自転車操業が立ち行かなくなるのも時間の問題でした。その事実を認めたくない母親が、自分を騙すために家政婦を雇ったのです。母親はもともと家事なんてろくに出来ませんから、父親にとってもこれは好都合でした。
しかしその頃にはもう既に家庭は崩壊していましたから、兄妹は家政婦と会話することもありません。母親が気まぐれで買い、撫でたことなど1度も無い猫だけが、世話をしてくれるこの家政婦によく懐いていました。
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さて、そんなある日曜日の、まだ日が昇りはじめていない頃でしょうか。家政婦はリビングにいる父親から怒鳴るような大声で呼ばれ、目を覚ましました。
「どうなさいましたか旦那様」
家政婦は眠たい目をこすりながらパタパタと廊下を急ぎ、父親に尋ねました。
「どうしたもこうしたもあるものか!!これは一体なんなんだ!」
リビングに到着した家政婦は父親の指さす先を...いえ、そんなものを追わずとも、すぐに父親の言わんとすることが分かりました。
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リビングの真ん中に、黒く巨大な物体があったのです。
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それは恐らく立方体に見えました。一辺が4メートルほどもあり、ともすれば天井に届いてしまうほどの大きさでした。
「これはなんだ!!説明しろ!!」
父親は顔を真っ赤にし、唾を飛ばしながら家政婦を怒鳴りつけます。
「なんだと仰られましても、私にも思い当たるところがございません。どこからこんな...」
「ふざけるな!早くどうにかしろ!!」
家政婦はこの理不尽な要求に内心はらわたが煮えくり返る思いでしたが、仕方なく周りを調べてみることにしました。まずは側面を4つ、じっくりと観察しましたが、ドアや窓、引き出しのような取っ掛りはありません。表面は少し冷たくツルツルとした手触りで、金属に近い素材で出来ているかもしれない、そう家政婦は思いました。全体重をかけて動かそうとしてもビクともしません。物体の傍で家政婦を見上げた猫が嬉しそうにクルクルと回っていました。
「旦那様、この重さでは動かすことができません。そもそも動かせたとして、これはドアより大きいですからリビングの外に持ち出せないかと」
「そんな事は聞いてない、どうにかしろと言ってるんだ!使えない奴だな!上は調べたのか?何か手がかりがあるかもしれん」
父親は腕を組みながら顎で合図しました。
家政婦は近くのテーブルを動かして、小さく「失礼します」と言った後、その上に椅子を重ねて登り、物体の上を覗き込みました。しかし父親の期待に反して、そこにはただ真っ黒な面があるだけでした。
「なにもございません。側面と同じです...!」
家政婦は父親に聞こえるよう、やや大きめの声で言いましたが、父親は不満気な顔でこちらを睨むだけで、これは“続けろ”を意味していました。困った家政婦は何か情報がないかと、上から物体を2度、力いっぱい殴ってみました。
すると、コンコン、と音が鳴ったのです。
家政婦にとってこれは意外なことでした。重い金属でできた物体の打撃音は、相場、“ゴンゴン”または“ガンガン”だと思っていたからです。これじゃあまるで...
「旦那様、これは“箱”のようでございます」
家政婦は椅子からおり、素早くテーブルを片付けると、布巾で椅子が触れた部分を丁寧に拭き取りながらそう言いました。
「箱だと?」
「はい、蓋こそ見つかりませんでしたが、僅かに中が空洞になっている音がしました。もしかすると何かが入っているかもしれません」
「なるほど...。お前、家族を呼んできなさい」
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それから15分後、家政婦が連れてきたのは母親1人でした。それも早朝に無理やり起こされて、如何にも不満そうな母親が、1人だけ。
「家族を連れてこいと言っただろう!!」
「しかし旦那様、お坊ちゃまは自室に引きこもって出てこられませんし、お嬢様は外にお出かけなさっているようでございます」
「こんな時間までなにをしてるんだアイツは...!!」
家政婦と父親の会話をよそに、母親は巨大な黒い箱を眼前にして固まっていました。気づいた父親に促され、家政婦は母親にこれまでの事を説明しました。
「ふぅん...。じゃあこの箱の中に何かが入っているのね」
「あくまで、かもしれない、ということでございます奥様」
「もしかしたら金銀財宝なんてことはないかしら」
家政婦は、空いた口が塞がりませんでした。
「奥様、昔話じゃないのですから、そんな事は...」
「いや、有り得るかもしれないぞ、これでもう一儲けできるかもしれん」
父親の言葉に、家政婦は半ば笑ってしまいそうでした。この夫婦は頭が弱いと常々感じてはいたものの、まさかここまでだったとは。
家政婦は彼らに愛想を尽かし、キッチンで猫の餌を用意しながらこう言いました。
「旦那様、奥様。これが私の最後の仕事でございます。これ以上はもうお付き合いできません。今まで大変お世話になりました」
猫は家政婦の足に身を擦り寄せると、満足気に目を細め、餌を食べはじめました。
「あなた雇ってもらってる身分で何を偉そうに!!ふざけるんじゃないわよ!!」
母親は激昂しましたが、父親は冷静でした。
「...そうか。そこまで言うならば君の意思を尊重しよう、荷物をまとめて出ていきなさい」
家政婦は分かっていました。母親の体たらくに困り果て家政婦を雇ってみたものの、父親の事業も崩壊寸前で家政婦に払い続ける賃金ですら苦労していたこと、そして己のプライドを保ちながら家政婦をクビにできる機会があるならば、父親は喜んでそこに飛びつくであろうことを。
家政婦は深く一礼をすると優しい目で猫を撫で、さっさと荷物を取ると部屋を出ていきました。
猫は不思議そうな顔をしていましたが、家政婦の背中に1度小さくニャーと鳴いたあと、リビングに戻り、すぐにケージの中で眠りました。
その間、母親は思いつく限りの罵詈雑言を狂ったように家政婦に浴びせ続けました。その怒号は、引きこもりの息子の耳にも届くほどでした。
耐えかねた息子は実に数ヶ月ぶりに自室を出て、リビングにいる両親に尋ねました。
「一体どうしたの...?これは、なに...?」
父親からこれまでのことを説明された息子は「これは“チャンス”かもしれない」と思いました。息子は父親の期待に応えたい、役に立ちたいという想いが人一倍強い子供でした。そのせいで、理想の息子になれない自分に嫌気がさし、引きこもりになってしまったのだけれど。
「父さん、見ていて!僕がなんとかするよ」
息子は箱を殴り、蹴り、トンカチで叩き、またライターで炙ったり、熱湯をかけてみたり、思いつく限りの策を講じましたが、もちろん箱にはなんの変化もありません。
父親はそれを冷めた目で見ていました。息子は“父親がガッカリしないこと”にひどく傷つき半ば泣き出しそうでした。もう一生自分に期待などされないのかもしれないと悪い考えが頭をよぎり、それをかき消す為に、もっとわざとらしく、大袈裟に箱を叩いてみせました。
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「ねぇ、これはどういうこと?」
父親のため息と同時に、帰宅した娘が母親に声をかけました。母親は娘に事の経緯を話しました。父親が箱を見つけてから2時間以上が経過し日は既に昇っていましたが、黒く巨大な塊のせいでリビングは薄暗く、空気はやけに冷たく感じました。
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「意味わかんない。この中に金銀財宝があるって?あんたら馬鹿じゃないの?お兄ちゃんまで必死になってさ」
娘は箱の周りをゆっくりと一周し、それから少し考えて言いました。
「でもこれ、バズるかも」
娘は何やら棒のようなものをテーブルに置き、そこにスマートフォンをセットしました。
「あんた、なにやってるの?」
母親に尋ねられ、娘は答えました。
「動画に撮っとくの。もし中に何か入ってたとして、ある朝起きたらリビングに巨大な箱がありました~中には金銀財宝が入ってました~なんて、誰も信じるわけが無いでしょ?証拠がなくっちゃ」
それから4人は箱の側面に1人ずつ立ち、それぞれが自分の思う方法で箱を壊そうと試みました。そして数十分後、4人が諦めかけたその時です。急に箱がグンッと小さくなった気がしました。
「今の、なんだ?」
父親が言いました。
「急に小さく、なった...?ほら!10センチくらい!絶対なってる!」
息子がすかさず答えました。
「ちょっとまって。今みんな、なにしてた?」
娘が尋ねます。
「押していただけだけど」
母親が答えます。
実はその時、4人が4方向からそれぞれ箱を押していたと言うのです。
娘の提案で対面の2人や3人だけで押してみることも試しましたが、箱に変化はありません。
4人が4方向から箱を押した場合にのみ、箱がわずかに縮むのです。
「これで良いのか分からないけど、これまでなんの変化も無かったんだから、続けてみても良いんじゃない?」
母親の言葉に、父親は頷きました。
「お前ら、せーので押すぞ!」
「せーのっ!!」
グンッ! グンッ!
箱は少しずつですが、確かに小さくなっています。
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「せーのっ!!」
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4人はそれから夢中で押し続けました。箱が縮むことと中身を取り出せることにどのような関係があるのかは分かりませんが、4人はそんなこと、ちっとも考えませんでした。
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「せーのっ!!」
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だってそうでしょう。4人が4方向から押した場合にのみ箱に変化がある。家族の1人でも欠けていては解決出来ない問題だったのです。こんなに道徳的で教訓めいた素敵な事は無いじゃありませんか!4人はこれにたいそう興奮していたのです。
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「せーのっ!!」
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4人はなんだか、初めて本当の家族になれた気がして、とうとうその幸せが錯覚であることに誰も気づきませんでした。いえ、気づかないことを、それぞれが、自分の意思で選んだとでも言いましょうか。
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「せーのっ!!」
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箱はもう、上面を見下ろせるくらいまで縮んでいました。4人は汗を拭い、何か大きな期待と共に笑顔を見合せながら言いました。
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「よし!最後だ!せーのっ!!」
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その瞬間、4人はプツッと跡形もなく消えてしまいました。
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広いリビングは、先程とは打って変わり、ただ静寂に包まれています。
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風に揺れたカーテンから細く日が差し、箱を照らしました。
外からは、春の訪れにはしゃぐ子供たちの声が聞こえてきます。
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しばらくすると猫がやってきて、箱の上に飛び乗ると、ひどく退屈そうに大きな欠伸を1つしました。
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ここで撮影していた娘のスマートフォンの電源が切れてしまいましたから、お話はここまでです。
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最後にドアの方を振り返った猫が嬉しそうな顔をしたのは、きっと、見間違いかもしれません。
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