想像とは心の洗剤-加藤シゲアキさん「渋谷と1と0と」を見て
生きていて、息苦しい瞬間がある。
それは割と日常的にぽつぽつやってきて、いきなり水の中に沈められるというよりは、少しずつ酸素が抜かれていくような息苦しさだ。
穴を開けてどうにか酸素を取り入れたいけど、いきなり入り込んでくるのもそれはそれで苦しい。だから針のように小さく開けて、少しずつ取り入れて、呼吸ができるようにしていけたら。そんな風に生きていけたらなと思う。
私にとって加藤シゲアキさんの作品は、そういう、酸素のようなものだ。
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NEWSの加藤シゲアキさん初監督作品がYouTubeにて公開された。
加藤シゲアキ原作・脚本・監督・主演。
名前の後につく肩書きの多さは何度見ても驚くばかり。
そしてサムネだけで最高が確約されてる。もうこの画だけですき。
十分ちょっとの映像作品は余白に溢れていた。
私は加藤さんがあえて生む余白がとてもすきで、どう受け止めるかはあなた次第であり、感じ方に間違いはないんだよと言ってくれるように思える。
そんな優しさと同時に、しかし考えることを諦めないでと背中を叩かれる感覚もある。
だから私が感じたことを残してみようと思った。
全編見て感じたことを、余白スペースに思うがままに書き連ねてみる。
あらすじ
汚れたものを受け取り、白いものを渡す。リネンサプライという仕事をしている男が、作中念仏のように唱える作品がある。それが梶井基次郎の「檸檬」という作品だ。
リネンサプライ会社で働く男は、この檸檬に出てくる主人公と自分を重ねている。
説明できない苦しみや孤独感といった姿形の見えない何かに覆われる彼が、この物語を唱えている時だけは救われているような気持ちになれた。
しかし、それも次第に変化していく。
救われていた気持ちは薄れ、彼はまた深い無力感に襲われていった。
この台詞からは、物語に自分を投影すること自体が馬鹿馬鹿しく思えた男の、ある種恥ずかしさのようなものを感じた。
レモンを爆弾に見立てるなんてあり得ない。
そんな風に冷めてしまった自分に対して、再び無力になったように思えた。
どうして冷めてしまったのか。そこに明確な理由はない。というより、うまく説明ができない。
小さなきっかけが積み重なったからかも知れないし、突発的なことなのかもしれない。それこそ、檸檬の主人公が元々すきだった詩を見ても音楽を聴いても心が動かなくなったような、そんなものだったんじゃないか。
しかし、リネンサプライの男は配達先の店員と小さな関わりを持った。鼻血を出した彼が店員からハンカチを借りる。それだけのことだ。
でもそれは、すきだった詩や音楽に心惹かれなくなった男が八百屋に並ぶレモンを手にした時の、新しい刺激を味わった時と似ている気がする。
リネンサプライの男は受け取ったハンカチを洗いながら、再び檸檬を唱える。
小説家の男も道端で拾ったおしぼりを洗いながら一緒に唱える。
レモンを丸善に置いて出てきた男のように、まだ見ぬちょっと先のことを想像しては、少しずつ無力感が薄れていった。それは、洗って汚れが薄くなっていくハンカチやおしぼりのように。
水に沈むハンカチとおしぼりが奏でるぶくぶくとした音が妙に心地よくて、並ぶはずのない二人の背中は私の想像力を掻き立てられた。
想像は心を洗ってくれる
舞台や映画を観た後、作品に使われていた音楽を聴きながら歩くのがすきだ。
登場人物になりきったり、シーンを思い返したり、その後の展開を想像しながら歩いていると余裕で三駅くらいは過ぎてしまう。
カフェの店員さんに対して脳内恋愛シミュレーションゲームをする。道端でばったり昔の同級生と会った時のことを考える。拾った宝くじが当選していきなり大金を手にした時のことを考える。
脳内に花畑が存在している私にとって、妄想することは日常的に多かった。
本作を見て、私はそんな自分自身のことを思い返していた。
どこかへ行くのも困難になった昨今、心に汚れは溜まっていく一方だ。
そんな時想像というのはどこにだって連れて行ってくれる。憂鬱とした世界とかけ離れた場所や時代に運んでくれる。そうすることで一時的にでも息苦しさから逃れることができ、それは日常的にこびりついた汚れが洗われるような解放感があった。
想像力というのは心の汚れを落とす洗剤のようなものなのかもしれない。
「渋谷と1と0と」が教えてくれた"想像すること"からはそんな風に感じた。
数あるシーンの中で印象的だったのは、使用済みのおしぼりで鼻血を拭く場面だ。
使用済みということは、そこには既に汚れがついた状態。でも、そのおしぼりがあったからこそ、応急処置とはいえ拭うことができた。
汚いもので拭うという嫌悪感もある一方で、誰かの汚れが誰かを助けることもあるように感じ、二重の意味でもインパクトに残っている。
原点への感謝と、意思表示
2021年吉川英治文学新人賞を受賞された際、加藤さんは贈呈式のスピーチでこんなことをお話しされていた。
檸檬の主人公や映像に出てくるリネンサプライの男のように、同じ作品を同じ熱量や感情をもって見続けることは難しい。
それは人間が変化する生き物である以上、そうなってしまうのは仕方ないと思う。私にもある。さほど響かなかった作品が年齢を重ねて響いたり、その逆もしかり。一時的に受け入れられなくなる時だってある。
与える側であるのと同時に、受け手として物語に救われたことがある加藤さんだからこそ、よりこのスピーチが心に響いたのを今でも覚えている。
そして本作を見て、よりこの言葉の解像度が上がった。そんな気がする。
「渋谷と1と0と」は救ってくれた物語に対する感謝と同時に、決意表明のようなものが詰まっているように感じた。
渋谷という街は、加藤さんの中でも特にターニングポイント的な街なんじゃないかと勝手ながら思っている。
それはデビュー作から三作が渋谷を舞台にしていたのはもちろん、学生時代に渋谷と縁が深かったことからも、原点のような位置なのかと想像している。
そんな原点でもある渋谷という街を舞台に、想像することの素晴らしさや物語への感謝を描いたんじゃないのかと私は受け取った。
そしてそれは、タイトルの「渋谷と1と0と」というように、ここで終わらないこと、これからもかき続けるという意思表示のようにも感じられるのです。
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映像を見ていた十分ちょっとの時間は、私にとってご褒美のようでした。
まず、ただただ撮った映像が美しい。質感というんでしょうか。それがたまらなく良い。音楽も良い。単館映画がすきなのでこういうのがめちゃくちゃ刺さるんです。
あれこれ考えること自体野暮なんじゃないかとも思いましたが、それでもやっぱり書き残しておきたくてキーボードを叩きました。全っ然まとまりがないけど…。
何を言ったところで一ファンとしての感想に過ぎず、ファンじゃなかったらもっと違った視点で見れるのかなと謎の悔しさも湧き上がってくるのですが、ファンだからこそ書けることも少しはあるのかもしれないと捉え直すことにします。なかなかに面倒な性格してるなー自分。
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「どうして一つの木に色んな実が成らないんだろう」
五歳三ヶ月だった少年はそう思い、自分で物語を描いた。
それは、ふしぎそうの木の実やあおむしぶどうの木の実、きいろいふしぎな実など、食べると目がとろりんとするようなおいしい実が成る一本の木のお話だった。
大人になった少年は今、歌うこと、踊ること、演じること、書くこと、撮ることといったおいしくて色々な実をつけていた。様々なところで蓄えたものが確実に実になっていた。
幼い頃に描いた本のように自分自身がなるだなんて、あまりにもドラマチックすぎてドキドキしてしまう。
これからも加藤さんが実をつけていくのを見て行きたい。
そして可能であれば、ほんのひとかじりでもいいので味わいたい。
初の監督作品を見て、そう思うのでした。
9月30日に発売される「1と0と加藤シゲアキ」も楽しみです。ドキドキわくわくそわそわ。
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