「粛々と運針」は誰の物語だろう。
時計の針が一定のリズムを刻んで動いているのは、文字盤の下にあるいくつもの歯車が噛み合わさっているからだそうです。ただチク、タクと淡々に時を刻んでいるけど、見えないところで大きさも回転数も違う部品たちが複雑に絡まり合い、互いを動かし合っている。
この「粛々と運針」という舞台もそうだった。母が入院している病院から帰宅した兄弟と、事故に合い相手からの連絡を待つ夫婦。舞台は彼らのほんの数時間、もしかしたら数分かもしれない日常を切り取っている。でもその中にはそれぞれの想いがギュッと詰まっている。それはとても普遍的で、いつかは向き合う”いのち”についてのこと。
※ネタバレ含まれていますのでご注意ください。
築野一と築野紘という兄弟
この兄弟の話がどうしても私の家族と重なってしまうんです。どちらの想いも分かるし、だからこそ苛立ちもあった。そして行き場のない寂しさも込み上げてきたんですよね。
コロナより前、母から終活をしていると打ち明けられました。墓じまいをして樹木葬へ改葬し、身の回りの整理や財産のことなどを私と弟に話してくれました。両親はまだ元気です。だからこそ、今からやっておこうと思ったそうです。
「二人に負担をかけたくないし、出来る限り自分たちで済ませたい。もし病気になって助からないなら無理して長生きさせなくていいし、認知症になったら施設に入れていいからね」
両親の優しさは理解出来るのに心がそこまで追い付かなくて、ただ、泣いてしまったんです。いずれ訪れる親の死という輪郭が少し明確に見えてしまって、悲しさやこわさが込み上げてしまって。
尊厳死を望む母と、二人の息子である兄・一(はじめ)と弟・紘(つなぐ)。少しでも長く生きれる見込みがあるなら治療するべきだと主張する兄に対して、母の意志を出来る限り尊重したい弟。どちらの主張も分かる、すごく分かる。どちらかが間違っているわけではないからこそ、”分かる”と薄っぺらい言葉しか言えなくてもどかしい。でもその間にも時は淡々と進んでいて、既に母は延命措置を受けていない。どれだけ迷い、葛藤していても時間というのは止まってくれない。その残酷さに心が苦しくなりました。
だからなのかな。途中に出てくる二人に共通した思い出話で一時的に盛り上がっているのを見るとほっとするんです。違った考えを持っていても、相手との距離に戸惑っても、景色を共有することも出来る。そこがリアルだなと思いました。
途中、「他の家の兄弟ってどうなんだろう」って台詞があるけど、どうなんでしょうか。私は姉弟という関係だから性別の違いもあるんだろうなあ。
時々不思議に思うんです。両親は元々他人同士だし、私は父と母の血が流れているから両親と同じ血ではない。唯一、弟だけが同じ血が流れている。家族でも”同じ”という意味では弟だけなのかと思うと不思議でたまらない。
田熊應介と田熊沙都子という夫婦
「結婚したら次は子供だね」というのが業務的に聞こえる時がある。全ての家族がそういうわけではないし、もちろんそういう意味で言ってるわけではないんだろうけど、電車で例えるなら結婚駅の次は子供駅みたいな、そんな風に聞こえる時がある。
私は結婚も妊娠もまだだからどうしたって想像することしか出来ない。子供は好きだけど、それとこれとは別問題だと思うんです。もし結婚したら自然と子供が欲しいと思うようになるのかな。
妊娠したかもしれない妻・沙都子(さとこ)。仕事も順調で理想とする家と家具も手に入れている。まだ叶えたいこともある。でもその理想が子供という存在が加わることで崩れるかもしれない。やりたいことも狭まってしまうかもしれない。なにより、完璧主義だからこそ「良いお母さん」になれるのかが怖い。自分の理想を求めたら「自分勝手」と言われてしまうのか。良いお母さんになるべく妥協しなきゃいけないのか。
後半、沙都子の台詞の一つ一つがずしんと刺さってしまった・・・特に「全部ホンマに望んでることなのに。なんで言い訳してるって言うん。ほんで、なんでこの考えは後で後悔するって決めつけられるん」という心の叫びが。Aが良いからBは嫌なんだって言われがちだけど、そうじゃない。どうしてすべて極端なんだろう。右か左か、前か後ろか、白か黒かで決められるんだろう。
ただ、夫・應介(おうすけ)の何者かになりたいという気持ちも分かるんです。"父"という役割によって自分の存在意義を見出せるんじゃないかって気持ち。夫、妻、長男、兄、弟、娘、会社員という役割は時に締め付けられるような息苦しさがあるけど、同時に役割によって自分を保ててる部分もあるんだと思うんです。子供がいることで、父親になることで彼は彼の人生を生きれるのかもしれない。
最初は聞き間違いだと聞く耳を持たなかったけど、最後は「とりあえず猫を探すわ」という流れが良かったな。まるで子供のことや二人のこと、現実と向き合う第一歩のようで。言葉を交わし合うことが出来るこの二人ならば、この先もきっと進んで行けると思うのはやっぱり押しつけがましいのかな。それでもそう信じたい。
糸(いと)と結(ゆい)
「桜の気持ちはどうなるん?声も出されへんのに」「じゃあさ、何年花を咲かせ続けたら納得する?」「わからへんけど、出来るだけ長い方がええんちゃう。その方ががんばったね、ありがとうってなるやん」「そんな姿、見られたいのかな」
ただ粛々と縫い続ける二人のこの会話がとても心に残ってます。まだ誰とも結びついてない無垢な糸と、長い時間を生きて色々なものと結んでいった結を表しているようで。そしてハッとさせられるのです。人間の都合で切られる桜の気持ちはいくら考えても分からないし、逆に人間の感情で生きながらえるのはエゴじゃないのかと。
一と紘にとっての”母”、應介と沙都子にとっての”子”であるのと同時に、二人は結と糸という存在。切られる桜の気持ちが分からないように、本人の気持ちは分からない。生まれてない子の気持ちが聞こえないのはもちろん、生きているからって本心はいくらでも隠すことが出来る。
相手を尊重する、相手のことを思うというのはとても難しい。
音楽と舞台セットと戯曲
本当に、めちゃめちゃ良かったです・・・!
ディジュリドゥという楽器は初めて耳にしたんですが、一度聴いたら忘れられない音色でした。ごわん、ごわんと体に伝わってくる振動は心臓の鼓動のように感じ、どこかゾクッとしたおどろおどろしさもあり、一気に惹きこまれました。クセになる音とはこういうことかもしれない。目には見えないのに波打っているように音が見える、そんな気がしました。
舞台セットも印象的でした。上から垂れる無数の糸が揺れ動いて絡まる様は関係性を表しているようだし、思考のようにも見えるし、照明の具合で川の流れのようにも見えたり。序盤、動かない振り子時計を見た紘が壊れているのかと聞くと「今鳴らないようにしている。一人だと怖いんだよ、あの音」と答えた一の心ともリンクしているように感じました。そしてその糸を何回か紘が意図的に揺らすシーンがあったんですけど、それは時が止まってる兄に向けたメッセージでもあったのかな。
台詞の一つ一つもとても繊細で、余白は残しながらも隙がなく、どうしてこんなに寄り添った言葉が生まれるんだろうと唸ってしまいました。どの人物のことも憎めなくて、愛おしくて、感情が揺さぶられる台詞の数々を噛み締めながら今も読んでいます。誰かに話したくなる、誰かと議論したくなる、誰かの想いを聞きたくなるような作品です。
なんと戯曲が売ってます。この舞台への出演が決まった時に読みたくなるだろうなと思い秒で買いました。嬉しい・・・戯曲読むの好き・・・。
加藤シゲアキさん演じる築野一のこと
すみません、応援している方のことは特別視してしまいます。許して・・・!
築野一くん。デリカシーないし親のスネをかじっているし、自分を真ん中に物事を見つめている41歳のフリーター。ただ、心の中は「一」という漢字の形を体現した人だった。まっすぐで平坦な一本線は変化したくない、変化を恐れている一くんを表しているよう。
無責任にズケズケ入り込んでくるところに苛立ちも芽生えたんですが、彼の本心が少しずつ見えてくると途端に愛おしさが込み上げてきたんです。いつまでも「お母さん」と呼ぶところ、長男として母や弟の前では泣きたくないと耐える姿、「~~だぜ」とわざとらしくつけるところ。それらは変化を恐れる臆病な本心を隠しているように感じました。とても人間み溢れていて、強さも弱さも隠さずに見せる加藤さんが演じることでより増していたように思います。細かな表情の違いもすごく良かったなあ。
終盤、母が心不全を起こした時の「参ったなあ」があまりにも苦しい。苦しそうに言ってないからこそ余計に苦しい。ここでも本音を隠して偽ってる一くんを見て、喉が詰まるような息苦しさを覚えて、気付けば涙がこぼれてしまいました。あなたは確かに長男であり兄でもあるけど、まずは一くんなんだよ。溢れそうになったら泣いていいし、「おはよう」「おやすみ」と自分の意志を伝えていいんだよ。
病院へ向かうラストシーン、紘に引っ張られていた一くんが最後は逆に紘を引っ張ってはけていく場面は、変わろうとする彼が垣間見えたように思いました。
物語が、私と結びつく
物語が進むにつれて二組の家族が混ざり合っていく様子は、舞台上と客席にある見えない壁がなくなっていくようでもありました。兄弟が話している時に見ていた夫婦、またはその逆である彼らはプレイヤーであり観客でもあって。同様に、こちら側も他人の話を覗いているはずがいつの間にか私事のように思えてくる。境目がどんどんなくなっていく感覚。
つまり私も観客でありながらプレイヤーでもあったんじゃないかと。そんな演劇体験をしました。
この舞台の感想を言葉にしようとすると、どうしても自分のことに繋げてしまって、果たしてこれは感想と呼んでいいのかと書いては消すを繰り返していたんです。今も、まとまりがなくてこれで良いものかと悩んでます。
でも、これこそがこの舞台の魅力なのかもしれない。他人事がいつの間にか私事になっていくこの感覚。「絶対」や「みんな」という言葉が苦手なんですが、生きている以上、いつかは「絶対」に「みんな」が向き合う生と死というテーマだからこそ、よりこの物語が私や、あなたや、誰かの人生と結びついたのかもしれない。それこそ、糸と糸が絡まり合うかのように。
今生きている人たちが”いのち”について紡いでいく。そしてそれを同じ時間、同じ空間で共有し合う。この作品は舞台だからこそ意味のある作品なんだと思いました。観に行けて良かった。出会えて良かったです。
先日、両親が誕生日を迎えました。私はあと何回「おめでとう」と言えるんだろう。
いつか言えなくなってしまう寂しさ、不安も編み込みながら、今日も時計の針は粛々とすすむ。
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