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知りたいも知りたくないも知られたくないも同居していい。-映画「あの娘は知らない」

基本的に父はわりと喋りたがりだ。
車やバイク、ギター、サザンオールスターズといった好きなものについてはよく話している。 

そんな父から先月、こんなことを聞かされた。
「音信不通だった兄と今年の2月に会ってきた」「昔その兄から言われた言葉にひどく傷つきずっと憤っていた」「それでも元気そうでよかった」と。

4人兄弟の3男な父は上2人の兄と血がつながっていない。長男は私が生まれるよりも前に亡くなっている。つまり音信不通の兄とは次男のことだ。
父は兄弟のことをあまり話そうとしなかった。だから私も詳しく知ったのは20代中盤を過ぎてからだった。加えて、次男と再会したことも夏に聞いた。
「自分のことだし、あまり子供たち(私と弟)に心配かけさせるのもなあと思って」
知らなかった父の一面を知った時、寂しさと安心感が混ざり合い、なんだか泣きそうになったのを覚えている。一番近いと思っていた家族のことでも知らないことはあること、知らせないこともあるんだと、車の中でぽつぽつ話してくれた父の声が忘れられない。

「あの娘は知らない」という映画を見た時、そんな父の声を思い出していた。 



若くして、海辺の町にある旅館・中島荘を営む中島奈々(福地桃子)。中島荘が休業中の9月上旬、ひとりの青年・藤井俊太郎(岡山天音)が「どうしても泊めてほしい」と訪ねてくる。彼は一年前に愛する人を失い、その恋人が亡くなる直前に、この旅館に宿泊していたと語る。奈々は亡くなってしまった俊太郎の恋人のことがすぐに思い当たり、彼女について、「笑顔が印象的でした」と振り返る。俊太郎は恋人の足跡を辿り、彼女の死を理解するために、昼も夜も町に海にと彷徨い、歩き回る。そんな俊太郎の姿を目にしていた奈々は、この土地の案内役を買って出て、いつしか彼と行動をともにするようになりーーー。

相反するものが共存していい 

そう思ったのが、死んだ恋人について俊太郎が知らないことを奈々が知っていたという場面。 
恋人という近い存在だからこそ話せることもあれば、その時泊めてもらった旅館の人という関係値だからこそ話せることもある。
あるいは、近い関係だからこそ話さない選択があってもいいんじゃないかと考えさせられた。 

俊太郎の立場だったら私も好きな人のことは出来る限り知りたいと思ってしまう。でも、恋人の立場だったら相手のことを想い隠す選択をするかもしれないなと、どちらにも共感もした。

知りたいことと知られたくないこと。
近い人と遠い人。
どちらかだけじゃなく、どちらもあって良い。

それは同様に、孤独に対しても言えるのかもしれない。
両親を失い、学生の頃のあるトラウマから傷を負った奈々は孤独を選んで生きてきたけど、ずっとそうでいる必要もない。変わりたいと思えば変わっていい。人のぬくもりを求めてもいい。その一方で孤独に身を委ねてもいい。


タバコを消すのも火をつけてくれるのも人

それぞれ喪失感を抱える2人は街や海を歩きながら、自分の心と向き合っていく。そしてラストに奈々はこれまで抱えてきたものがあふれ出したかのように涙をこぼす。そのシーンに私も涙があふれカタルシスを味わったのを覚えている。
人は喪失感を与える一方で、ここにいるよと体温を与えるのも人なんだと実感した。
振り返ると、俊太郎からタバコをもらった奈々が彼に火をつけてもらう何気ないシーンがそれを表しているようで、なんとも美しく印象的だった。

これを傷の舐めあいとか、喪失した部分を埋め合うような関係になるとか、そういった枠組みにはしたくない。

奥浜レイラさんは映画を見て下記の通りコメントしている。
「この場所が誰かの心ない言葉や安易なカテゴライズで壊されませんように」
まさしく、その通りだと思った。


あの夏、どうして父が次男と会ったことを教えてくれたのかは分からない。
気持ちの変化があったのかもしれないし、逆に父にとってはもう大したことじゃないからこそ話してくれたのかもしれない。
でも、話してくれたことだけでいい。それでいいかな。

知らなかった寂しさと、教えてくれた安心感の両方を抱き締めて、夏の暑さが漂う夜に車を降りた。

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