わたしは「何を」写すのか
5/11
ニコンプラザ大阪でのトークショー以来、ずっと頭に残っている問いかけがある
「結局それって誰でもいいってことになるの?」
ポートレートの見方(何に心動かされるのか)が分からないという問いに対してわたしは私なりの見て欲しいポイントを返した
それに対しての別所先生のコメントがこの問いかけだった
ぐぬぬ、非常に鋭い。。。
Q.わたしは「何を」撮っているのか
トークショーの中でわたしが話したポートレートの見方はざっくり以下の通り
・被写体がかわいいとかそういうのよりも光の使い方を見て欲しい
・どんな種類の光を、どんな風に捉えているかを見て欲しい
A.わたしは「魅力的な光」を撮っています
確かにこのままだと写るのは誰だって良いのでは?と思うのも仕方がない
ただ私の中では「誰でもいい」なんてことはない
何故、「誰でもいい」ではないのか
「光」と「ヒト」の関係性
光は世の中の誰にでも平等に降り注いでいる
その光を見つけるのは私、
その光に美しさを感じるのは私、
その光に心を動かされるのは私
その美しい光を、よりよく伝えるために
より魅力的に見せるために「ヒト」を写している
私の写す「被写体」は光とヒトの二つだ
この二つの間に優劣はないと断言する
光をより魅力的にするためのヒトであり、
ヒトをより美しく魅せるための光である
私が見る世界を色んな人に見てもらいたくて、
私と被写体のアナタで共同作業を行っている
美しい光 + アナタ
ではなく
美しい光 × アナタ
になるために
ここまで見てもおそらく誰でもいいんじゃない?
と思ってしまう
のも仕方がない
私も心の奥底では「だれでもいい訳じゃないんだよなあ」と思いつつ、その理由を言語化できないでいた
ついこの間まで
現時点でのアンサー
わたしが撮っている「順光ポートレート」は少し特殊なジャンルだ
わたしの作品に対する理解がないと中々挑戦ができないし、こちらからも頼むことが難しい
逆に言えば、わたしの作品性を分かってくれている人、「順光ポートレート」とはなんぞやを理解している人とは素晴らしい作品を創ることができる
順光ポートレートに必要な要素のひとつに「作品への深い理解」が含まれていると感じている
その理解はお互いの人間性の理解であったり、経験値であったりが関係している
結局は人間関係が良い作品を生み出すひとつの大きな要素になっている
わたしの作品には「ヒカリ」と「ヒト」と「関係性」が写っている
ということで「良い作品」を創り出す為には「誰でもいい」訳では無い
しかし初対面からでも人間関係を構築していけば、きっと良い作品を創り出すことは可能だ
(今回の展示モデルも3年前に初めて会った方だだた)
そういう意味では「誰でも可能性はある」のではないだろうか