追伸。アホ毛は相変わらずちょっとあります。
ある者は目を丸くした。
ある者は目をこすった。
ある者は目を疑ぐった。
そして口を揃えてこう言うのだ。
「めっちゃ短くなったなあー!」
会う人会う人同じ類のことを口にするので、私は半ばヤケクソである。
「せやろ!!!」
私の髪は膝まであった。
成人式を迎える直前、美容師さんに背中半ばまで切ってもらった。振袖を着る折、母の要望で私の髪は日本髪に結ってもらったのだ。ここは平成だぞ。
「……長すぎるのでね、あの、ほんまに勿体ないですけどね、うん。切りますねー」
大変言いにくそうな様子は、今でもよく覚えている。特に「切りますね」の直前。「うん」。美容師さんの決意がうかがい知れる一拍であった。
様々な髪を見てきたであろう百戦錬磨の現役美容師をしてそう言わしめたほど、それほどに私の髪は長かった。
そして傷んでいた。
切れ毛も枝毛もお手の物。結んだはずがない玉結びが鈴なりになり、アホ毛がモワモワと立ち上がる。
そもそもヘアケアとか興味がなかったのだ。小学生の頃は必要があって伸ばしていたが、中学に入る頃にはその必要もなくなっていた。
かといって、美容院に行くのはなんだか怖かった。
根明なパリピがひしめき合う、ミラーボールの回る魔窟だと思っていたのである。
「わたしみたいな根暗の陰キャが行ったら、秒で丸刈りにされるに違いない」
なんていう偏見と妄想に取り憑かれた私の髪は、ろくすっぽ手入れもしていないせいで、かわいそうに傷みきっていた。我ながらかわいそう。
そんな感じで髪の毛が放置され、ついでといってはなんだが、着飾ることも化粧にもアクセサリーにもとんと疎い、ダサくてひどくイモい十代を送ったわけである。
成人を迎えてからも、そのイモさは暫く続いた。
髪はやはり伸ばしっぱなし。
服は母が買ってきてくれたものをそのまま着るか、あり合わせのものを辛うじて見苦しくない程度に。靴なんかは一足まるまる履き潰すまで履き続け、化粧もしないのにニキビ面の、見るも悲惨な二十代前半に差し掛かった。
毎朝、自分の目と目が会うたびに驚く。
「ヒェ、悲惨な喪女」
寝起きだと不細工に磨きがかかるのだ。顔面に磨きがかかるのならば綺麗なはずだ。だがブス。
ある日、母が贔屓にしている芸能人のイベントに参戦せることになった。
イベント参加権を賭けた抽選に、見事に私だけ当選してしまったのだ。我が家一熱意のある母はあえなく落選。神は無能。
母以上に私が落ち込んだ。何故なら私は、母よりかはその芸能人に入れ込んでいないからだ。だから落ち込んだ。
せめて母の代わりに入れ込もうではないか。そう決意した今年の九月。
私は髪を、ばっさりと切った。
顎の辺りまで切り、人生初といっても過言ではない短さにしたのだ。これでイベントにも新たなる気持ちで赴けるぞ。戦場へ挑むのだ。
内心の得意げが外見にも滲み出るものなのか、積極的に母が買ってきたお洒落な服を着てみたり、おもむろにヘアケアとスキンケアにも手を伸ばしてみた。
素人が浅瀬でぱちゃぱちゃやっている程度だが、私からしたら大いなる進歩である。
きっと同世代の女の子は皆、既に素潜りの域に達していよう。友達の顔面再建術などは目を見張るものがある。文字通り目の大きさが違うのだが、それはアイラインとカラコンのお陰であると仰っていた。匠のなせる技。
残念ながら彼の芸能人が催したイベントは、台風の影響により延期となった。
だからといってばっさりと切った髪も、若干なりとも垢抜けてきただろう私の喪女も、元に戻ることもない。
九月といってもまだ夏の名残りが続く頃、女性のショートヘアがなによりも大好きな兄が言うのだ。
「その歳にもなってやな、オカンに買ってもらった服ばっか着てたらアカンで」
ほんまやでな。
当代きってのファッションリーダー。根明の陽キャにそんなことを言われ、以前の私であれば、
「光の使者が何を申すか控えろ我は陰キャなるぞ」
「正論はやめぬか貴様は我を溶かす気か」
「ジャージやなかったらええやん」
と反感を抱いていただろう。抱くだけ。述べたら怒られるから。
だが結べないほどに髪を切って心境が変化したらしい私は、確かにな、せやな、と反感を抱くどころか、兄の言い分に一理も二理もあると頷いてしまっていた。
服か、服……手始めに、自主的に可愛い洋服店を覗くことから始めよう。
ちょうど二十四の、残暑去り難きその日、私は新たな決意を胸にした。
ニキビは相変わらず私の顔壁に御坐すが、スキンケアと食生活ちょっと改善によって少しはマシになってきた。
服は相変わらず母チョイスのものだが、自主的にいろいろと組み合わせを考えるようになった。
イモ脱皮の要因は多々あれど、思い切って髪を切ったことも大きく影響しているのは、誰の目にも明らかなのではなかろうか。
毎朝鏡を見るたびに、私は未だにぎょっとするけれど。
だがしかし、ヘアクリームを揉み込んでブラシをかけると内巻きになる髪を見て、ほんのり自賛するようになった。
切れ毛も枝毛も見当たらない私の髪は、一時期に比べるとずっと手入れの行き届いたものである。
これまでの私を知る友達はみな驚いているが、しかし否定的な意見はまったくない。
単に私の友達が聖母の如き慈愛に満ち満ちた人達だから、という事実は確かにある。あるからどうした、私は変わった。変わっていくつもりだ。
凝り固まった意識を変えるのに、ヘアカットは効果的なのではないだろうか。
手櫛が難なく通るようになった髪は、陽の下でツヤッと光ってくれる。
街中のショーウィンドウなんかで見かけるとびっくりするが、今後は是非ともそれに慣れていく所存。
天使の輪っかなんぞ無縁のものだと思っていた私の、やはり仰々しい第一歩である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?