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【初心忘れべからず 一人一燈なり】-「人として交わした約束」はたとえ囚人であろうと死刑になるとわかっていても守る。日本人の義理固さ

【初心忘れべからず 一人一燈なり】-「人として交わした約束」はたとえ囚人であろうと死刑になるとわかっていても守る。日本人の義理固さ

今日は 先日江戸の防災体制の話をさせてもらいましたが、明暦の大火の時

小伝馬町の牢屋敷に収獄されていた120人ほどの囚人を解き放った,江戸幕府伝馬町牢屋敷の囚獄(牢屋奉行) 石出帯刀吉深(いしでたてわきよしふか43歳)と囚人とのこれぞ日本人と言われる絆なのお話を紹介させて頂きます。

明暦3年1月18日(1657年3月2日)、明暦の大火が発生しました。当時の江戸の町のほとんどを焼き尽くした、大火災として知られます。

石出帯刀吉深は町奉行の配下で、牢屋敷役人の同心や下男を束ね、牢屋敷と収監者の管理、刑罰執行・赦免の立会いなどが主な仕事でした。

『武鑑』には、「囚獄、石出帯刀、300俵、小伝馬町、同心50人」と江戸役人の一番末に記載され、旗本ながらお目見え以下(将軍に拝謁できない)の立場です。牢屋敷の鍵も奉行所が保管していて石出の手元にはなく、囚人を預かることのみが石出の権限でした。

明暦3年正月18日。本郷丸山本妙寺から出火した火災は、たちまち燃え広がって大火災となり、火は小伝馬町の牢屋敷にも迫りました。

当時、120人ほどの囚人が獄にいましたが、牢の鍵は奉行所にあり、所定の手続きがなければ開けることはできません。

しかし、「このままでは牢屋敷に火が移り、囚人たちは焼け死ぬことになる。それではあまりにも不憫(ふびん)」と感じた石出は、自ら牢の手前を打ち破って、囚人たちを外に出しました。そして、囚人たちにこう告げます。

「其の方どもも存じている通り、鍵は御番所(奉行所)にあるゆえ、本来であれば其の方どもを焼き殺すより他ないところであるが、我らの一命にかけて解き放つことといたす。必ず逃げることなく、浅草新寺町の善慶寺へ戻って参れ」

石出の独断による「切り放ち」でした。その勇気ある決断に、囚人たちは皆感激し、涙を流して、石出に手を合わせる者もいたといいます。囚人たちはそれぞれ散っていきました。

しかし、石出の責任は極めて重いものです。牢を破壊して囚人を外に出すことさえ越権行為であるのに、自主避難させた囚人たちが、もし火事に便乗して悪事を働き、あるいは一般市民に危害を加えるようなことがあれば、もはや石出が切腹するぐらいでは済まないかもしれません。

しかし石出は、自分の命と引き換えに決断を下しました。

そして翌19日までに、一時釈放されたおよそ120人の囚人は、見事に全員が指定の場所に戻ってきました。石出は焼け残った町の者の協力を得て、彼らの食事の世話を行なうとともに、町奉行に報告して、3日後には囚人たちを浅草三十三間堂に移しています。

囚人たちにすれば大火災の混乱の中、火に巻かれたことにして、逃げおおせることも可能でした。しかしそれでは、自分たちを信頼して、命がけで救ってくれた石出を裏切ることになってしまう。

たとえ自分が極刑を受ける身であったとしても、自分を信頼して、命をかけている人間を裏切ることは、やはり人のすることではない。そのことを江戸の囚人たちは、全員がわかっていたのです。

果たして今、同じようなことが起きたとしたら、現代人はどう振る舞うでしょうか。江戸を生きた人々の心と心の結びつき、人の道というものをわきまえていた彼らの姿に、学ぶべき点は多いと感じます。

なお石出は、自分との約束を守ってくれた囚人たちのために、幕府に「罪人といえどもその義理堅さは誠に天晴れ。彼らを死罪とすればみすみす日の本の損失となる」として死罪を含めた罪一等の減刑を嘆願、幕府もこれを認めて全員の減刑が実行されたといいます。ー職務と家格 参照

ここで改めて 学んだことは 我々先人たちは 

「人として交わした約束」は守る。そういう義理難さを日本人は本来持っているのです。

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