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【稲いなむらの火】他の人々のために自らを費やすことの価値とは?濱口梧陵(はまぐちごりょう(儀兵衛))の生き様を問う!

【稲いなむらの火】他の人々のために自らを費やすことの価値とは?濱口梧陵(はまぐちごりょう(儀兵衛))の生き様を問う!
「良い行いは自分の一生を良いものにしてくれるだけではない。人のために自己犠牲をもいとわない生き方は、孫子の代まで良い影響を及ぼす」濱口梧陵(はまぐちごりょう(儀兵衛))
おはようございます!とっさの判断で村人を救った”稲いなむらの火”のお話をさせて頂きます。
 安政元年(一八五四年)大地震が発生し、広村(現在の和歌山県広川町)を大津波が襲おそいました。このとき、被災した村人の救助の中心となって活躍したのが、濱口梧陵です。このエピソードを題材に、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が「生ける神」として発表し、人々の心に感動を呼び起こしました。それをもとに、中井常蔵つねぞう国定教科書用に題名も「稲いなむらの火」として書き上げた物語をまとめ、主人公は五兵衛(ごへえ)としました。
 「これはただ事ではない」とつぶやきながら五兵衛は家から出て来ました。今の地震は別に激しいというほどのものではありませんでしたが、長いゆったりとした揺れ方と、うなるような地鳴りは、老いた五兵衛にとっても、今まで経験したことのない不気味なものでした。五兵衛は、自分の家の庭から心配そうに下の村を見下ろしました。村では、豊作の年を祝う宵祭よいまつりの支度したくに気を取られて、さっきの地震には一向いっこうに気が付かないようです。
 村から海へ移した五兵衛の視線は、たちまちそこに吸い付けられてしまいました。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、みるみる海岸には広い砂原や黒い岩底が現れてきたのです。「大変だ、津波がやって来るに違いない」と五兵衛は思いました。このままにしておいたら400人の命が、村もろともひと飲みにされてしまいます。もう一刻の猶予ゆうよもありません。
「よし」と叫んで家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明(たいまつ)を持って飛び出して来ました。そこには、取り入れるばかりになっているたくさんの稲束(刈り取った稲の束)が積んであります。「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、五兵衛はいきなりその稲むらの一つに火を移しました。風にあおられて、火の手がぱっと上がりました。一つまた一つ、五兵衛は夢中で走りました。こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てました。そして、まるで失神したように、彼はそこに突立ったまま沖の方をながめていました。
太陽はすでに沈んでいて、あたりがだんだん薄暗くなってきました。稲むらの真っ赤な炎は天をこがしました。山寺では、この火を見つけて、お寺の鐘かねを続けざまに激しく打ち鳴らしました。「火事だ。庄屋さんの家だ」と、村の若い者は急いで山手へ駆け出しました。続いて老人も、女の人も、子どもも、若者の後を追うように駆け出しました。高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻ありの歩みのように、もどかしく思われました。やっと二〇人ほどの若者が、駆け上ってきました。彼らは、すぐ火を消しにかかろうとしましたが、五兵衛は大声でいいました。
「うっちゃっておけ。大変だ。村中の人に来てもらうんだ」
村中の人が、だんだん集まってきました。五兵衛は、後から後から上って来る老幼男女を一人一人数えました。集まって来た人々は、燃えている稲むらと五兵衛の顔とを代わる代わる見比べました。そのとき、五兵衛は力いっぱいの声でさけびました。「見ろ。やって来たぞ」
 たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方向を一同は見ました。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えました。その線はみるみる太く、広くなって、ものすごい速さで押し寄せて来ました。
「津波だ」と、誰かがさけびました。
海水が絶壁のように目の前に迫ったと思うと、山がのしかかってきたような重さと、百雷ひゃくらいが一度に落ちたようなとどろきとをもって陸にぶつかりました。人々は、われを忘れて後ろへ飛びのきました。雲のように山手へ突進してきた水煙すいえんの他は、一瞬何も見えませんでした。人々は、自分たちの村の上を荒狂あれくるってとおる白い恐ろしい海を見ました。二度三度、村の上を海は進んで、また退しりぞきました。高台では、しばらく何の話し声もしませんでした。一同は波にえぐり取られて跡形もなくなった村を、ただあきれて見下ろしていました。稲むらの火は、風にあおられてまた燃え上がり、夕やみに包まれたあたりを明るくしました。始めてわれに返った村人は、この火によって救われたのだと気が付くと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいたのでした。
【出典、参考文献】
「小學國語讀本(尋常科用)巻十 稲むらの火」文部省/広川町役場ホームページ
いかがでしたか?濱口梧陵はとっさの判断で村人を救いました。彼の冷静な判断と洞察力のお蔭である。彼は幼いときより、温厚な人物であり、また聡明で物事を深く考え、洞察力に富んだ人物であった。
しかし梧陵の偉大さはそのようなエピソードで表せるものではない。阪神大震災・東日本大震災でもそうであるが、被災した後、再び元の生活にどのように戻していくかと言うことの方が大変である。
彼はまず食糧を確保するために、備蓄米を出し、地元の有志もまた食料を援助し、260俵、銀840貫を得たことが記録に記されている。さらに彼は小屋を建てて、被災した人々のために住まいを備え、農具を鍛冶屋に命じて多く作らせ、生産手段を確保した。また自ら住居を建てたものには、普請料(建設補助金)を与え、漁師のためには、漁船、漁網などを与え、再びもとの生業ができるようにされた。
梧陵の優れた人格と、博愛精神をかいま見ることができる。しかしながら、広の地は幾たびもの津波によって、甚大な被害を被ってきた。ある人々は広の地には住めないと感じ、別の土地へ移住していった。梧陵は広の土地を津波から守るため、また職を失った人々のために、堤防を築くという、当時としては大変な大工事を起こした。しかもその資金は浜口の両家から出すという、壮挙であった。安政2年(1855年)に起工し、足かけ4年目の安政5年(1858年)に完成した。さらに彼は、借家を建設し、極貧の者には無料で貸与し、農商業者には極めて低利で資本を貸した。
広橋も破損したので、その橋も自費で修復した。彼が出費した総額は実に4665両に上ると言われる。村民が彼を尊崇し、浜口大明神として祭り上げようとしたが、彼は堅く固辞した。このような業績により、小泉八雲によって「生ける神」と評されたことも当然であろう。まさに人々のために自らを費やした、真の政治家である。
彼は明治元年和歌山藩勘定奉行を命じられる。明治13年(1880年)には和歌山県初代県会議長に就任している。明治17年(1884年)海外の視察の情止み難く、65歳の高齢を押して、アメリカに旅立った。しかし翌年の明治18年2月(1885年)アメリカにて発病し、帰らぬ人となった。
  皆さまどう感じましたでしょうか?今日、自らの利益を優先させる世にあって、梧陵の生き方は地元の為に何ができるか?しいてはこの日本の為に何ができるか?教育の危機が叫ばれているが、その根本原因は、自らの利益が第一になっている点が上げられるであろう。梧陵のように、他の人々のために自らを費やすことの価値を、今一度私達は認識し、本当のよりよい生き方を後世に伝えていくべきではないか?問いたい!
かんながら ありがとうございます

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