昔からウンコが嫌いだった

いつから強迫観念に悩まされるようになったのか分からない。思い返せば、昔からウンコが嫌いな人生であった。コロコロコミックなんかを開くと全ページに巻きグソが登場するが、不快だった。汚いからだ。ウンコは汚い。小学生の頃のわたしと、ウンコ、その関係性を紐解いていこうとすると、ある衝撃的な光景が思い浮かぶ。小学校の昼休み、グラウンドの隅のほうで、低学年が鬼ごっこをするのを眺めていると、ひとりの生徒が、手に犬のウンコを持って女子を追いかけていた。未だに、たまに思い出す。大した光景ではないが、とにかく衝撃的だったのだ。ウンコを、触っている!

もちろん、ワードとしてのウンコには散々助けられた。ウンコは嫌いだが、言葉は好きだ。バンドを始めるという友人に、サマータイムうんこブルースというバンド名をプレゼントしたことだってある。ウンコは面白い。わたしはカタカナ派だ。ひらがなでも充分面白いとは思うものの、「うんち」には納得がいかない。「ウンチ」は使い方次第で化けるモノを秘めている。しかし、ひらがなの「うんち」は、なんだか気取っている。前髪が長い。「えっち」などと平気で言う奴は総じて、ひらがなのうんちである。前髪が長い。本稿ではウンコとして表記させてもらう。

わたしのウンコ嫌い人生は、祖父の飼っていた犬にも起因する。実家の近所に住んでいた祖父は元々漆黒のたぬきを飼っていて、獰猛な性格と昼間でも真っ黒いその姿に畏怖していたものだったが、そのたぬきが死んでから新しく犬を飼い始めた。祖父が不在がちだったこともあり、小学生だったわたしはその犬がしっかりとエサを与えられているか心配で、よくエサをあげに行っていた。うまそうに食う姿が大変かわいらしくて愛おしかった。

しかし、横にはウンコがある。わたしはこいつに餌をやることはいとわない。一緒に散歩に行くことだって当然いとわない。けど、ウンコだけは無理なのだ。ウンコが大嫌いなわたしは片付けてやることはおろか、「ウンコが、ある!」と思うだけで何もできず、ごめん、と帰る毎日。

どうして犬は、ひいては生物は、ウンコをするのだろう。そして、どうしてウンコは汚いものだと認識させられてしまうのだろう。動物は自分のウンコを見てどう思うのだろう。もしわたしと同じように不快に感じるのであれば、祖父の犬には申し訳ないことをしてしまった。

ここまで読んで、「ウンコは普通みんな嫌いでしょ」と思う方もいるだろう。しかし、そうではない。ウンコは、もちろん口では嫌いというだろうが、案外みんな平気なものである。性的嗜好にまで踏み込むことはやめておくとしても、ウンコそのものに大した拒否反応を示さない人を、これまでに何度も見て来た。

代表的なのは、地面に座る人々だ。わたしは、地面には絶対に座りたくない。理由を聞かれれば「きたないからだ」と雄々しく答えてきたが、もっと理由を細分化すると、「かつてウンコがあったから」である。すべてはウンコから始まる。靴の裏だって絶対に触りたくなくて、理由は「かつてウンコを、もしくは、ウンコがあった場所を、踏んでいるから」に他ならない。わたしがプールに入れないのも、「だれかのウンコの成分が必ず混じっているから」、温泉に入れないのだって、「入浴前に肛門をしっかり洗うジジイなどいるわけがないから」だ。すべてはウンコに起因する。

これを聞くと、ほとんどの人が「こいつはウンコ恐怖症、ウンコノフォビアじゃないか」と思うだろう。しかし、わたしから言わせてもらえば、あなたたちがウンコに関心を向けていなさすぎるだけだ。一度、自覚したほうがいい。あなたたちはウンコが平気なのだ。ウンコが平気じゃなければ、地べたに座ったりなど、到底できるわけがないのである。あなた方は、わたしに疑いの目を向けるのをやめ、まずは自分自身と向き合う必要がある。”私は、ウンコのことを、どう思っている。” この問いから逃げ出す者に救いはない。

さて、私のウンコ嫌いは徐々に大きくなっていき、トイレ嫌いへと発展することになる。その道筋をたどっていこう。


ウンコ嫌いから、トイレ嫌いへ――


わたしが明確に強迫性障害であることを自覚した高校生を思い出してみよう。わたしの中に渦巻く最もポピュラーな強迫観念として、「立って小便ができない」というのがあるが、これは高校生の頃に培われたものだ。これにはあるトラウマが原因で…とその前に、一度このポピュラーな強迫観念について話しておこう。

これを読んでいる男性の方々は、小便器で立ってトイレをするかと思う。わたしは、これは、この世の異常に他ならないと考えていて、たとえば100人の男性に「立ち小便をするとき、小便がズボンに跳ね返りますよね」と聞くと、満場一致で「YES」と答えるに違いないのだが、それじゃあ、なぜ、あなた方男性は、それをよしとしている?ズボンに小便が付着するのだ。どうして、それを許していられる?どうして、小便が付着していると分かっているズボンで人の家にあがり、ゆっくりくつろぐことができる?

男性に膝まくらをされるのが好きだという方は、そのまくらに大量の小便がしみ込んでいることを忘れてはならない。いかに恋人同士の楽しい時間でも、膝まくらをしてもらう前に、今日は何度小便をしたか確認することだ。一度でも小便をしていたら、その膝まくらは小便まくらに他ならない。もちろん、小便に勝る愛もあるだろう。しかし、時として愛は、不必要なものと戦わされる。人は愛に優劣をつけたがり、試練を科して愛の強度を確かめるのが大好きである一方で、愛の崩壊を喜ぶ側面もある。こんなにも下品な世界で、せめて小便の付着していない愛を選ぶことは、自分の身を守ることにもつながるのです。

愛と排泄物の関係性はさておき、わたしは高校生のとき、学校の小便器で、こっけいにも立って小便をしていた。まだ愛を知らぬ頃である。
ジョーーーと自分の尿道から小便が放出されていく様を眺めていると、なぜか小便器から水が逆流してきた。「うわっ!」と思い離れようとするも、ちんぽからは小便が出続けている。このまま後ろに下がって小便のスプリンクラーになるのは避けなければならない。徐々に上がってくる水位と、わたしの小便との戦いだ。あふれるのが先か、出終わるのが先か―――。

ビショ濡れになった上履きを水道で何度も洗い、干して、その日は靴下で過ごした。トイレから逆流してきた水だ。もう、それはそれは汚いに違いない。上履きも無事に渇き、なんとか事なきを得たかに思えたが、本当の地獄はここからであった。

その日から、自分の上履きが汚いものとしか見えなくなっていた。少しでも上履きを触ると、すぐに手を洗った。下駄箱で靴を履き替えるときも、手を使わず足だけで器用にこなした。とにかく、上履きに触れなくなったのだ。しかし、理由は分かっている。トイレの逆流水を浴びたあと、水での手洗いだけで、まともな消毒ができていないと分かっていたからだ。だから、家に持って帰って洗濯をしよう、と考えても、わたしの中で「汚いもの」だとされているその上履きを、カバンの中に入れることが耐えられなかった。それに加え、この「汚いもの」を、わたしの家族が手に触れる可能性もある。それにも耐えられない。これは愛ではなく、わたしの身近なものは極力清潔であってほしいという極めて自己中心的な考え方によるものだ。

結局洗うことができず、そのまま一緒に高校生活を過ごす羽目になったその上履きからいろいろな糸が伸びて、わたしに強迫観念を植え付けていった。

・向こう側にトイレがある壁に触れない
・トイレットペーパーはトイレに置くものなので、新品でも触れない
・小便がしみ込んでいるから、男のズボンには触れない。

とにかく挙げていけばキリがない。わたしはこうして、強迫性障害に蝕まれていったのである。しかし、このことを学校内の誰かに知られようものなら、わたしのことである、わたしにあえて汚いことをやらせようとする輩が必ず現れていただろう。わたしはそれを何よりも危惧し、この習性を一切誰にも喋らずにここまで来た。過去の自分のことをこうして話せるようになったのは、本当につい最近のことだ。

ウンコ・トイレ以外にも細かい症状は多々あり、それとうまく付き合いながら歳を重ね、東京にやってきた。高校生の頃と比べると強迫観念もだいぶ落ち着きを見せており、特にストレスなく過ごすことができていたのだが、最近になってある事件が起こる。

本当に苦しんだ。今は落ち着いているものの、まさにこのツイートをしている時期はマジで辛かった。ウンコに頭を支配されたのだ。これを読んでいるあなたも、いつウンコに頭を支配されるか分からない。気を付けておいたほうがいい。
また、この事件については、わたしがやっているラジオで詳しく語っているので、是非そちらもあわせて参照していただけると嬉しい。

※ウンコの話は3:38辺りから。

右手で触ったものを左てでも触らなきゃ気持ちが悪かったり、鍵を閉めたかどうか不安すぎて引き返してしまったり、火事になるのが怖くてすべてのコンセントを抜いて家を出て行くというような、いわゆる強迫性障害と聞いて思い浮かべる”神経質さ”とはまた別で、わたしはウンコとトイレが恐ろしいのだ。きっと、分かってもらえないだろうし、なるたけユーモラスに書いたこの文章を読んで「ふざけて言ってる」と思う人も多いだろう。ただ、ハッキリと断言しておきたい。わたしは、ウンコが怖い!!!



本当に、





怖い!!!!!!!!!!!!!!!!!


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