なにかをやれ!
美術大学の展示に行って年下の人たちのバイタリティを目の当たりにしてノドを焼かれ光陰のやたら際立ったクールなキャンパスの5階から飛び降りたくなるあの自傷行為、あれが私は好きで、美大の展示があると聞くと結構ホイホイ行ってしまいます。今日は造形大学の造形展という展示があったのではるばる町田市?相模原市?どこだか分からない辺境にまで足を運び、スクールバスの列に若者が大勢並んでいるのを尻目に「大学まで1.3キロだぞ、歩けよ、若いんだろ」と毒づきながらシャムキャッツのアートワークに使われていた建物を発見してワーと写真を撮ったり等、情緒の往復に忙しい道中だったんですが
さて、私は同大学を卒業した友人と一緒に展示に行き、当然、承知、覚悟のうえで、「俺も行きたい、連れてって」と言ったにも関わらず、学内で友人が様々な知り合いとすれ違い挨拶を交わしている間、あの時間、急にふと孤独に陥るあの瞬間が、今日とてたまらなく恐ろしく、消火器などを見て時間を潰している高卒の連れの後ろ姿は級友との再会にひどく雑音を与えてしまっただろうな、と反省するところまで含めて、俺の身体の欲する甘美なのであった。
それにしたって自分には、一口に芸術、と言っていいのか分からないが、人間の創作物について、あまりに無学、無自覚、無頓着であることをいつも突き付けられるというか、やはり優れている絵、優れている写真など、それが何故に優れているのか、というようなことがまったく分からず、そのコンプレックスは、自分が見て、それで何を感じるのかが重要である、という定説が戦ってくれるような気もするが、ずっと昔からそんな定説はもはや意味など持っていないのも事実。「COOL」「NO COOL」という脆弱な基準を持って闊歩しながら自身の計りを酷使していると、だんだんと「手が込んでいるなあ」とか「絵がうまいなあ」などといった表面的な感情で脳がいったん手打ちにするようになってしまう。これは美術館なんかに行ってもそうだし、多摩美に行っても武蔵美に行っても藝大に行ってもそうだったし、結局のところ映画もそうなのであって、かといって俺は芸術作品に対して「こんなのが」と揶揄するようなつまらない人間にもなりたくないので、これからもなるべく人様の創作を摂取し続けて生きていきたいと思っていますが、それって俺が無意識のうちに、「これって何なんだよ、結局のところ全部なにがなにであるというんだよ」という、すべての動作の根本の、源泉みたいなものってみんなにあって、作品から作り手のそういった霧状のものが発散されていて、鼻から吸った俺はマイナスイオンみたいに気持ちがいい、ということなのかもしれない、マジで、それが後々イヤになってしまうことも、そもそも納得できていないものとかも多いと思うんだけど、どんな形であれ「今の私はこれです」つって名前と一緒にモノを作れるのってメチャ立派だと思うし、俺って生まれてからひとつも何も作ってないな、とか思って冬の風が気持ち良かったりするんですけど、僕って誰よりも大学の展示を楽しんでいると思いませんか?
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日記やアイデアや見た映画や告知など、忘れないほうが良さそうなことを記録しておきます。頑張ります。
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