知識ゼロからMTGを始めました①
人はどうして学校で教わった大切なことを忘れてしまうのか。
国語、数学、社会、理科、英語……あれだけの時間をかけて勉強したのに、社会人になった今となっては記憶の海の底である。
だが、そんな私でも道徳だけは唯一覚えている教科だ。
「人が嫌がることは決してするな」
あまりにも基本的な倫理規範。
社会人となり結婚した今では共同生活にもすっかり慣れ、職場や家の中でも誰もがうっすら幸せでいられるように気を配るのは当然の務めであると自任してきた。
しかしながら、ヒトは本来獣なのだ。
同族同士は助け合う仲間でもあるが、限られたエサしか無いならばそれを奪い合う敵となる。
限られた餌とは勝利だ。誰だって勝利が欲しい。
これを「永遠に抑えろ」というのが義務教育の教えならば、私の最終学歴は幼稚園卒でいい。
ゲーム(勝利)とは私にとって、人間であることを忘れるためのツールなのだ。
MTGとの邂逅
ある時、友人からプレゼントをもらった。
私は遊戯王、ヴァイスシュヴァルツ、プレシャスメモリーズ、ヒーローズプレイスメント(生涯で最も愛した市町村擬人化カードゲームだ)等、様々なカードゲームを渡り歩いてきたが、マジック:ザ・ギャザリング(以下MTG)だけはついぞプレイしたことはなかった。
過去MTGに抱いていたイメージは「高い」の一言に尽きる。
たびたび「ウン百万円で売却された」とネットニュースを騒がせる「ブラック・ロータス」を代表とし、環境で戦えるようになるまでにとんでもない値が張るという印象だった(それが誤解なのかは今も分かっていない)。
まあ人からもらったスターターデッキで妻と遊ぶぐらいなら問題あるまい。
早速妻と一緒にルールブックを読み込むが、当然ながら全くよくわからない。
こういうルール学習用の謎のプレイマンガを付属させる風習が生まれてくれることを切に願う。
しかしまあ驚くべきことにカードの質が高い(気がする)。
パラパラとカードを見てみると、スターターデッキと銘打っているにも関わらずかさましバニラモンスターが一体もいないのだ。割と実践も見据えたデッキなのだろうか。
時折「護法②」や「到達」といった暗号が書かれたカードも見られる。
これらは恐らくキーワード能力という奴なのだろうが、ルールブックに詳細な解説は見られない。
しかれば、こいつは一体何に到達するというのだ。これらの暗号を全て記憶する頃には、先に我々の方が悟りの域に到達してしまいそうだ。
だが、たまたま持っていた20面ダイスに描かれていた謎の模様がMTG公式のマークだったと気付いた時の高揚感ときたら、さながらダ・ヴィンチ・コードの謎を解いた時のようだった。
このアドレナリンの赴くままに「なんとかなるだろう」と、とりあえずデッキを手に取ってみる。
妻はかっこいいドラゴンのデッキを選び、私は羽が生えた変なおじさんのデッキを選ばされた。夫婦関係とはそういうものだ。
プレイするうち、「なんかポケモンカードみたい」と妻が言った。
「60枚のデッキでマナ(エネルギー)とモンスターが分かれている」という点でその直感は大いに正しいが、私は「もっとシビアなゲームだな」と感じた。
少なくとも私の知るポケカGBは「マサキ(強欲な壺)」と「オーキドはかせ(ヤバすぎて例えられない)」があって、それらの発動にはマナコストがかからない暴力的なゲームだった。
対してMTGは「ほぼ全てのアクションにマナコストがかかる」という30代以降の人体を象徴したかのような渋いゲームだ。
カードゲームに野生化を求める私にとってはそれは少々厳しい縛りのように思われた。何戦かしてみて、「ほどよい面白さのボードゲームだな」ぐらいの感想に落ち着いた。
しかしもらったスターターデッキの中に、またしても謎のダ・ヴィンチ・コードを発見する。
深い深い謎がそこにはあった。
きっとハマったら何かの冒険に巻き込まれて二度と帰ってこられないような直感があった。
しかし私には生活があるのだ。
デイリーミッションは遊戯王マスターデュエルだけでいっぱいいっぱいで、あとの時間は人間としての理性を保っていなければならない――
次回。新米プレインズウォーカー、深淵の入り口へ。お楽しみに。