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「フェミニスト」は、男性嫌悪をする女性の代名詞なのか。差別の観点から考えてみる。

私は昔、「フェミニスト」という言葉を馬鹿にしていた。渋谷駅で女性専用車両を強く訴える人たちを見て「自衛すれば?」とか「誰も興味ないよ」など思っていた。「フェミニスト」という言葉は、感情的で周りが見えていない"男性嫌悪"を持つ女性の代名詞だと大真面目に認識していた。

女には賞味期限があって、馬鹿みたいに振る舞うことが美徳だと本気で思っていた。ごく普通のように、「女は苗字の変わる生き物だから」とか「売れ残らないようにね」と言われて育った。
私は、全ての"常識"みたいなものを信じて疑わなかった。だってそうやって、大人の女性や男性たちから教えられてきたから。テレビでそう言っていたから。

数年後、今のパートナーに出会って初めて「人間として」大切にされることを知った。全ての「世間が決めた常識の呪い」から解き放たれた時にやっと、"人間としての権利"を放棄していた自分に気が付いたのだ。自分は「女であること」にきつく縛られ、感覚すら失っていた。紐が解けた時、感覚が戻る痛みに身が焼けそうだった。

私は女性の立場でしか物を語れない。だって"女"としてしか生きていないから。昔は本気で男性になりたかった。でもそれは「男性の体を持つ」ということではなくて、「男性の立場になりたい」という欲求だった。
しかし振り返ってみれば、私自身も男性に性役割を押し付けていたと思う。「男なのに泣くなよ」とか「男ならこうしろよ」という主語の大きい言葉を平気で投げていたし、その言葉通りに動くべきだと考えていた。だからこそ、「女だから」とか「女なのに」という主語を容易く使う人たちの気持ちが分かる。自分が差別をしていることや、差別を受けていることに気が付かない方がずっとずっと楽なのだ。

日本で生きている人たちは、男性だろうが女性だろうが、必ず誰かの「差別の言葉」に晒されている。

私たちはアジア人で、「ハーフ」で、在日外国人で、女性で、男性で、性別に違和があって、異性愛者で、同性愛者で、貧困層で、富裕層で、障害を持っていて、顔の系統や体型が何から何まで他人とは違う。「差別をする側」と「差別をしない側」なんてなくて、誰もが皆、その両方に足を突っ込んでいる。

差別というテーマは、どうしても対立構造のように見られがちだが、私はそうではないと思う。差別をなくすことに、他人との議論はあまり意味を為さない。何故なら、どちらかが少しでも「侵害されている」と感じた瞬間に、防衛機制が働いて議論が深まらないからだ。また、どちらかに攻撃性がある場合には、そもそも議論ではなくなってしまう。同じリテラシーと情報量を持たない限り、真の議論は難しい。だからこそ、本当に大切なのは「自分自身との対話」と「他者への想像力」だ。仮に対立が生じているならば、その両方を義務付けない限り妥協点は見つからず、永遠に傷つけ合ってしまうだけだ。

私は性被害を受けたことに深く傷付き、同じ思いをした人たちを「何故自衛しないのか」と心の中で責めることで、自衛を出来なかった幼少期の自分に罪を擦りつけていた。そして加害者の"性別"である「男性」に性役割やタスクを押し付けることで、罰を与えた気になっていた。自分が負った傷を相手に付けることで、傷を癒そうとしていた。
(性別に関わらず)誰かの加害によって傷付けられた人は、まずはその傷を癒して、自分自身を大切にしてから社会の変革に臨んで欲しいと思う。傷付けられた痛みを、武器として振りかざすことは駄目なことではない。しかし、自傷と同じだ。きっと振りかざした手も、痛くて苦しい。それで勝ち取った勝利も、気が付かないうちに貴方を蝕んでいく。フェミニズムというテーマは、(どんな立場であったとしても)その人の根底を揺るがしてしまうような繊細なものだ。だからこそ、ここ最近のフェミニズム論争の対立構造を大変嘆かわしく感じている。

インターネットを介して沢山の情報が入ってくることで、私の脳の情報処理スピードは急成長を遂げた。その影響で、大好きだったテレビ番組や本や漫画やアニメを見ることが出来なくなってしまった。表現の中で「これは軽視では…?」と感じてしまうと、心に黒いモヤモヤが浮かんできて、誰かを傷付けていないかどうか考えるようになった。作品や作者に非があるわけではない。私を含めた「誰かの痛みに鈍感になってしまった人たち」が、そうならざるを得なかった過程が1番の悪なのだと思う。

「差別をする」という言葉はあくまで動詞であって、その人の代名詞ではない。だから例えば貴方が差別をしていて、それに気が付いたり誰かに指摘された時に、自分自身を守る必要なんてない。貴方の人格を全て否定しているわけではないから、ただ「誰かが嫌がる行為」を止めればいいだけなのだ。もしそれを「止めたくない」と感じているなら、それは貴方自身の心の中に何かしらの"傷付き"があるサインなのかもしれない。

フェミニズムが言わんとしている「真の平等」とは、傷付いてきた人たちが癒され、性別問わず全ての人たちが尊重し合い、誰かが1人で痛みを抱え込まないような社会を目指すことなのだ。そして私もまた、その社会を構築している1人で、全ての人たちがその当事者だ。
議論の分断に疲れた人に、この文章が届いたら嬉しい。

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みたらし加奈
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