モノをよーく見よう!
見るということはどういったことでしょうか。
昨年から今年にかけて様々な場所でマガジン a quiet dayとそのマガジンでフォーカスを当てたクリエイターたちのプロダクトを扱ったポップアップを開催していたりしていると、こういうことを常に考えています。見やすいディスプレイ。アッと驚き、気持ちが動きやすいディスプレイ。工夫や前回の反省などを踏まえた商品量や全体としての色のバランスを取ってみたりと試行錯誤なのですが、思考をフル回転させている時間は、少し心地よさを感じたりもします。けれどせっかく精魂込めて立ち上げたポップアップも、お客様や友人から場所が分からなくて辿り着けなかったなどと言われてしまった時には、僕の心は砕け散るのでした。どこを見てあなたは歩いているんだ?よーく見ろよ!と心の中で言いたくなる気持ちを抑えつつ、丁寧に場所と近くに何があるのかという目印などを教えて、また今度近くに立ち寄ったら是非見てみてください!と笑顔で声をかけたりします。
冷静になるとその人たちが意地悪で言っている訳ではなく、本当に気がつかないこともあるのでしょうね。自分が逆の立場の場合も勿論あります。そしてそんな時は、自分は一体何を見ていたのだろうと自分自身を疑いたくもなります。それはもはや、その場所を指し示す看板の配置や大きさの問題ではないのでしょう。
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最近、複数の本を読んでいて共通するキーワードを見つけました。それは、「知覚」です。そりゃ、今書店に並ぶような新刊本であればバズワードとしての共通部分や言葉は違えどニュアンスが同じような言葉が出てくるかもしれません。けれど今回読んだ本は、一つは今年出たばかりのビジネス書。もう一つは1979年に出版されたイラストレーターの絵本作家が初めて書き下ろししたエッセイだったので、40年弱もの期間を超えた共通点だったのです。
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これらで述べられていることは、自分たちが見ている「事実」と「真実」は「情報」によって如何様にも解釈されてしまうということでした。ここでいう「事実」とは、本当に起こったことを意味します。しかし、「事実」は刻々と過去の中に組み込まれて行ってしまうので、どうしても記録をしておかねばならない「事実」は、写真など様々な記録手段で情報化されていきます。そしてその情報を通じて再現されたものを「真実」とします。
するとその「情報」の捉え方によっては、「事実」=「真実」にならないケースも生じてきます。この解釈の部分で影響を与えるのが「知覚」(「情報」の意味を思考する)という能力なのです。
過去の「事実」が情報化され、何らかの意図を纏った「情報」が「真実」として再現されたとしても、その与えられた情報を受け取った張本人が正確な情報処理や解釈、つまり「知覚」をしていかないと「事実」と異なる「真実」として理解し(もしくは何も受け取らずそこで終了)、他の人にそれをまた次の「情報」として渡してしまうなんてことが起こりかねません。しかし「知覚」の正解なんぞは、個人の能力によるところなので、そもそも存在しません。その解釈は多様なのです。
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おい、だったらそもそもこの議論はいらないんじゃないか、と声が聞こえてきそうですが、ここで言いたいのは、部分だけではなく全体、一面ではなく多面で物事を見てみるという個個人の「知覚」の訓練が必要だということなのです。様々な視点で物事を捉えられるようになると「知覚」の幅が広がり、一つの事柄であったとしても別の立場から物事を解釈することができると、何を信じるか、信じないか、あっているのか、間違っているのかに関わらず、それぞれの立場からの主張を理解することが出来るようになります。そうすれば、無意味な二項対立も避けられますし、協調の緒が見つかってくるのだろうと思うのです。今の現代では、この「知覚」のトレーニングが必要だということを実感した4月のはじまりでした。
さて、よーく世の中を見てみましょうか!
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