意味の場
毎朝、朝食に欠かせないモノは、コーヒーと緑茶です。自分の変わったルーティーンなのですが、この二つを飲まないと、どうも調子がイマイチになってしまいます。もともとはコーヒーを飲んだ後に口の中に残る酸味と苦味が入り混じった感じを、緑茶で洗い流すくらいの気持ちで飲み始めたのがきっかけなのですが、どうも含まれる成分を少し調べてみると、コーヒーのカフェインの覚醒作用で目が覚め、緑茶のテアニンで気持ちが落ち着いた効果があるそうです。つまりは寝ぼけた体や頭を飲み物で「上げて」「下げる」みたいなことをやっているようで、僕にとっては、1日の始まりとしてとても重要な意味を持つ習慣です。
コーヒー豆と緑茶は決まったロースターやメーカーのものを飲んでいるかというと、そうではなくて豆や茶葉が切れ次第、どこのモノを次は飲もうかなどと考える時間も少し自分にとっては特別な時間だったりします。
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昔からじっくりと観察する癖があるようで、小さい頃は人をじーっと見過ぎて、親に「そんなじーっと見るものじゃない。」とよく注意をされていました。最近も不要普及の外出を制限をされた中で、これからのことについてじっくりと世の中を観察していますが、世の中とは一見、かけ離れているように思われる自分自身の感情や思考、行動や言動の意味性について考えていたりします。
上に挙げた普段自分が何気なくしている習慣などの“当たり前”の行動をこういった時間だからこそ、じっくりと観察してメンテナンスしてあげてみても良いのかなと思います。働くとは、生活をするとは、自分の行動を通して何を伝えていくのか、何を達成したいのか、などです。そんな自分はというと、a quiet dayという自分の仕事を通して、目に見えていない物事を手を替え品を替え、時にモノを扱ったり、文章や声にまとめてみたりしながら明らかにしていきたいと思っています。
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最近注目を集めているドイツの若手哲学者マルクス・ガブリエル氏の著書を読んだのですが、彼の主張で「世界は存在しない」という言葉が出てきました。どういうことかというと、共通して存在する世界というものは条件(共通的な視点)が必要で、これが定義されないと、存在の証明が出来ないのではないかという考えです。
対象物、例えばグラスが机の上にあるとして、AさんとBさんが同じ場にいる状況で、「物体を認識する」という条件下においてAさんとBさんがグラスを認識とすると、条件が共通しているのでAさん→グラス←Bさんという世界が存在するということですが、仮に科学者のCさんが「科学的な視点(分子など)」という条件でグラスを認識している場合は、先ほどのAさんBさん二人とは異なった世界に存在することになるので、二人とCさんの間には世界は存在しないということが言えるのではないかということです。
この主張をより詳しく知りたい方は是非彼の著書を読んで欲しいのですが、異なる二人の間に跨がる共通理解を彼の言葉を借りると「意味の場」と言うそうですが、二人の関係性以外にも自分と自分自身が感じていることなども、そこに意味性が見出せないと存在しないのと同じなのかなどと考えてみたりで、改めて少し自分の感情や習慣もじっくりと観察して意味性を見出してみても良いのではないのでしょうか。
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