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をもかげ

言葉にはそれを使うシチュエーションと紐づいた言葉がある。面影という言葉もその類の一つだ。
実家に帰って思い出のアルバムをめくりながら、数十年ぶりに友人と再会したタイミングなどに、今と見比べながら「面影がありますね。」といった感じにだ。

字面を見ても面白い。「面」という字と「影」という字が組み合わされて表と裏のような、相反するけれどお互いが影響し合う関係性を感じ取ることができる。
「面」はストレートに「おもて」つまり顔を意味し、一方、「影」は本来「何かに光が当たり、遮られる部分にできる暗い部分」のこと。
語源を辿ってみると古くは自分の姿を見る行為、つまり「(鏡や水面などに)映し出される姿」を指すようになり、そこから派生して本物・実物とは別の、何かに映し出された像のことを表す言葉になっていったようで、平安時代には、紫式部によって編纂された源氏物語にも「桐壺」の部分で面影という言葉が使われている。

本来の自分や実物はそれを照らす中にある。
自分を探すことに必死で手元や周辺に盲目的になってしまう現代社会において、少し示唆に富む考え方なのではないだろうか。
先の「面影がありますね。」の会話の中には、きっと心の中に映し出された姿、幻影のようなものを感じとっていたのだろう。

さて、先日今秋に創刊予定のマガジンa quiet dayの取材のために群馬県の桐生に足を運んだ。桐生という街は古くから西の西陣、東の桐生と言われるように織物、特に絹織物の産地として有名な場所だ。

以前は絹織物の産地で時代を築き繁栄したことでスナックなどは300軒を優に越して栄えた街とはいえ、見る人によっては、少し寂れた地方の街といった印象かもしれない。しかし、街中を散策してみると確かな織り技術や絹という素材としての可能性は健在で、太平洋戦争の戦果を免れたのか、戦前に建築された建物には南向きの応接間がしっかりと増築されており、ステンドグラスなども施されていて、ただの古い街というよりは日本の古き良きモダンな建築がみられるスポットでもあった。まさに街の「面影」なのだ。さらに街には新たに県外・県内から若手のクリエイターたちも集まり始めていて活気付いている。

受け取る情報一つ取ってみても、全てをストレートに伝えて伝わる場合もあれば、あえて断片や周辺を伝えることによってイメージを想像の力で具現化して伝える方法もあるのではないだろうか。
意外にその方が本質への近道なのかもしれない。

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